自然科学と聖書は矛盾しないと、本気で思っている人がいる。
そして、ほとんど暴力的にその価値観を押し付けてくる、創造論の原理主義者もいるのが事実である。
(ちなみに、科学と言えば範囲が広すぎて、考古学なども含まれてしまうので、一般的に科学というイメージで語られるのは、物理や化学などの自然科学としてよいだろう。)
確かに、普通の人は自然科学に関して何も知らないので、自然科学は事実を記述するのだとか、
自然科学は真理に近いのだという誤解しているのも本当のことである。
自然科学は不確かであり、反証される余地が残る学問である。
しかし、自然科学は同時にたくさんのことを明らかにもした。
その所業をすべて無かったものにして、聖書を信じるということはできない相談だ。
自然科学と聖書は、直接的には矛盾する。
というか、矛盾するとかいう結論を出すことができるような同じ議論の土台の上にない。
自然科学はどこまで行っても無神論的な思考しか持ちえないからだ。
飛行機が飛ぶのを見て、「あれは、神の手が飛行機を支えているのだ!」といえば、頭がおかしい人だと思われるだろう。
自然科学に絶対者としての神が関与する余地は、全くないのである。
つまり、無神論を前提とする自然科学と、有神論を前提とする聖書と、矛盾するのは当たり前である。
自然科学の記述を聖書の記述へ適用したり、その逆は、土台が違いすぎるゆえに無意味だと言える。
様々な本が、この誤解の中に迷い込んでいる。
しかし、それは、いわゆる似非科学、つまり、オカルトの域を出ることができない。
自然科学者たちが、創造論者を似非科学者だと批判するのは、非常に理にかなっている。
ある創造論者は、地球年齢が1万年であることを示そうと躍起になっているが、たとえ1万年であることが分かったとしても、それが聖書の正しさを証明することにはならないのである。
いくら無神論の土台から、有神論を証明しようとしてもそれは無理な話である。
いや、逆に科学は強力に、超越的な絶対的な神がいないことを論証する。
中世であれば、絶対者なる神が必然であると見られていた。
世界のすべての因果関係の元の元、超越的な原因としての神という概念が通用した。
まさに、神は必然的な存在だったのである。
しかし、近代のデカルト、そしてニーチェを経て、そのような超越的神、絶対的神という存在は、いないことが証明された。
近代的な無神論は、超有名な言葉を用いたのである。
そう、「神は死んだ」と。
では、聖書はなんの力を持たない、一つの宗教的伝統を守る本へと落ちたのだろうか?
無神論と、有神論は、どちらかを採用せねばならないような、ものなのだろうか?
これに関して、積極的に戦ったのがカール・バルトの弟子であるエーバハルト・ユンゲルだった。
Eユンゲルの作業は、非常に重要な意味を持っている。
彼は、無神論を無視したり、近代哲学の流れを無視することはなかった。
むしろ、無神論こそが、神学を擁護するものとして考えたのである。
彼は無神論を否定するのではなく、神学の方を批判的に解体して見せた。
つまり、中世から考えられていた、超越的な神、絶対的な神、形而上学的な神を批判した。
「神は死んだ」と宣言されたのは、超越的な神、形而上学的な神が死んだのだ、と宣言したのである。
そのような、人間の地平線から考えた形而上学的な神は死んだ。
それは、まさに人間が造りだした都合のいい偶像だったのだ。
そのような偽物は、存在しないことがはっきりした今、無神論が発展している今こそ、聖書が啓示する神は生きている。と考えたのである。
Eユンゲルは、無神論こそが、人間の造りだす偽物の神観を打ち砕くために有用な道具とみなした。
無神論が強く「神は死んだ」と言えば言うほど、聖書に啓示される神は、もっと強調されるべきなのである。
Eユンゲルの作業は、悩めるクリスチャンの科学者たちの悩みを解放するだろう。
そして、現代の無神論的な世界観の中で生きるクリスチャンを解放するだろう。
無神論は有神論と、もはや矛盾するものではなくなったからである。
むしろ無神論は、人間の造りだす偶像が存在しないことを強く主張して、聖書の啓示する神を論証する道具となるからである。
そう、自然科学と聖書は、同じ土台で語ることができない。
一方は無神論に土台があり、一方は有神論に土台があるからである。
ゆえに、自然科学が聖書の正しさを証明したりするなんていうのは、夢物語である。
しかし、自然科学は、人間の造りだす偶像を打ち砕く有用な道具となりえる。
人間の住むこの世という地平線には、神なんていないことを、はっきりとさせてくれる。
聖書が啓示する神以外の神と呼ばれるものは、神ではない、死んだ神だと言ってくれるのだ。
人間の造りだした偶像が打ち砕かれた後に残っているのは、神の地平線から私たちの地平線へとご自分を啓示される神のみである。
絶対に交わることのない、ふたつの地平線を交わらせたイエスキリストにおいて啓示される神のみが残るのである。