おはようございます。1サムエル4:12-22でした。
4章に入って、イスラエルの最悪なシナリオが描かれます。
昨日の箇所では、ペリシテとの戦闘に神の箱を持ちだすシーンがあります。
彼らは、信仰によって神の箱を持ちだしたのではありませんでした。
もし信仰があったらな、神の箱はシロに置いたまま、そこで祭司たちが祈りを捧げたはずです。
しかし、彼らは信仰がなかったゆえに、心が弱かったゆえに、神の箱を持ちだしました。
目に見える箱が彼らの戦争へのモチベーションを高めるために必要だったからです。
まさに、神の箱を偶像として用いたのでした。
このとき、真実なる祭司ならそれを止めたはずですが、エリも、彼らの息子たちも止めませんでした。
むしろ、息子たちは神の箱を持ちだすために、付き添ったのではないかと考えらえます。
これにより、イスラエルは敗北します。
そして、ついていたエリの息子たちも戦死しました。
さらにひどいことに、神の箱はペリシテに奪われてしまいました。
エリは、この戦争の結果を城門のそばで座って待っていました。
神の箱を持ちだしたのを、気にしていたのかもしれません。
逃れてきた戦士から、戦果を聞いて、エリは驚きのあまり転倒し、死んでしまいます。
首が折れたとは、頭とのつながりが切れたという象徴的な意味があります。
つまり、主との関係が切れて、祭司職が切れてしまうことを意味していました。
そのとおり、預言者サムエルはレビ人ではなかったゆえに、祭司長ではありませんでした。
この祭司職が回復するには、ダビデ王の即位を待たなければなりませんでした。
このように、サムエルに与えられたエリとその家族に対する裁きの預言が、実現していきます。
エリの息子の嫁は、夫と義父が死んだのを聞いて、神の箱が奪われたことを聞いて、突然に産気づいてしまいます。
恐らく、早産だったのでしょうか、嫁は出産に耐えられず死んでしまいます。
その死の間際に告白した言葉が、「栄光はイスラエルを去った」という言葉です。
「去った」と訳されているヘブライ語の単語は、受動態で用いられると、「目が開かれる」とか、「主が啓示される」という意味にも用いられる恵みの言葉です。
この単語には、全く反対の意味である、「離れる、取り去られる」という裁きの意味も持っている不思議な単語です。
神の箱が持ち去られたという意味での栄光が去ったと言っているだけではなく、
神と人とを結ぶべき祭司職が切れて、主との関係が途切れてしまったという意味でも、栄光が去ったと告白されています。
主の栄光が、主の御心によって去ったのではなく、イスラエルの心が主の御許から去ったゆえに、主の栄光がイスラエルから去ったように見えているだけです。
主の方から、去ることはなく、いつも、人間の方が神から去ることを繰り返してきました。
主は離れる人を見ながら、また、誰かを動かし信仰を回復させる働きをします。
それがサムエルであり、ダビデを通してなされていくわけです。
神の栄光から離れたイスラエルが、もう一度、その信仰を、恵みで回復させていくという物語に転換していきます。
主の愛は諦めることなく、イスラエルに注がれ、ずっと見守って下さることを証ししていくわけです。
そのように、私たちが主から離れ、主の栄光が遠くなったように見えても、主はまた私たちの目を開かれて回復させるように働かれます。
私たちは、いつでもどこでも、どのようなときも、私たちの所へいらっしゃる主の恵みを信じて、大胆に歩むことを信じて感謝します。
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