9月7日早天メッセージ

投稿者: | 2017年9月7日

おはようございます。
イザヤ15:1-9でした。

15章から16章までモアブについての預言が続きます。

実際の歴史では、アッシリアが攻めてくるときに、モアブは滅ぼされました。
アッシリアの征服の仕方は、まさに恐怖を植え付けるようなやり方でしたから、非常にむごたらしい人の殺し方をしたようです。

1節見てわかるように、1夜のうちに、町が略奪され、モアブが滅びたことが強調されています。
アルと、キルはモアブの北側にある砦で、戦略的拠点でした。

考えて見ると、モアブは、イスラエルにとっては遠くて近い親戚です。

モアブはロトの子孫であり、あのダビデ王のひいおばあちゃんであるルツこそがモアブ人でした。
歴史の上では、イスラエルと戦った時代もありますし、平和だった時代もあります。

イザヤが預言していた当時は、モアブは、反アッシリア同盟を作っていました。
この反アッシリア同盟に怒ったアッシリアによって、モアブは滅ぼされてしまったということです。

15章はモアブに対する哀歌と言っていいでしょう。
1節からは、モアブ自身が、自国の滅びを泣き叫んでいます。

 

しかし、注目したいのは、5節からの哀歌です。

5節「わが心は、モアブのために叫ぶ。」

「わが心」と言っているのは誰でしょうか?

ほかでもない、預言しているイザヤです。
そして、もちろん彼に預言をさせている主なる神ご自身でしょう。

つまり、主に対する反逆によって滅ぼされるモアブに向かって、他でもない主ご自身が、嘆き悲しみ、叫んでおられるのです。

これは、私たちの普通の感覚だとおかしいことになります。

モアブが自分の罪によって滅びるのであれば、こういうでしょう。
ああ、自業自得だな。やっぱりね、主に背いたものは、そのように滅びの道を行くのだ!
時には、自分にもモアブのような罪がないのか?と、吟味して悔い改めたりします。

これらは結局、自分はまだ裁かれていないからこそ、言えます。
裁かれてない私は、隣で裁かれた人を冷静に、観察することができるということです。

 

しかし、イザヤ、そして何より主はこのような冷静なる観察が最初ではありませんでした。

滅びゆく罪人に対して、泣き叫ばれたのです。

もちろん、モアブが滅んだのは自分の罪が原因です。
しかも、罪による滅びをあたえたのは主ご自身です。

しかし、その罪によって滅ぶものに対して、ほかでもないが、悲しみ叫ばれました。

 

そう、まさにイエス様の叫びを私たちは思い出します。

私たちの罪に対するイエス様の叫びは、どのようなものだったのでしょう?

エリエリレバサバクタニ!です。
わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか?

この叫び、悲しみと嘆きの叫びこそが、イエス様の私たちの罪に対する反応でした。

罪により主から離れた私たちに対して、イエス様は叫んでおられたのです。
この嘆き悲しみの叫びこそが、イエス様の愛のモチベーションでした。

この悲しみの叫びが、イエス様を愛によって十字架に向かわせました。
罪の悲しみの叫びを、実際に引き受けて、ご自分の嘆きとされたのです。

だから、イザヤが預言しているモアブの滅びに、哀歌を歌う主の姿は、まさに十字架で叫ぶイエス様を預言しているのです。

 

私たちは、誰かが罪によって裁かれているのを、冷静に分析している場合ではありません。

自業自得たとか、悪い時はざまあみろとか、やっぱりね、とか言っている場合ではありません。
もちろん、自分が罪を犯すときも、冷静に分析している場合でもないのです。

その罪に対して、イエス様が嘆き叫んだのと同じく、罪を背負う痛みの叫びをあげなければなりません。
モアブが裁かれる理由は、この哀歌の後の16章に書かれています。

主には、罪の原因を究明するより前に、やることがあったのです。

それこそ、罪に対して、嘆き悲しみ叫ぶことでした。
主から離れてしまうことが、どれほどに悲しいことなのか、叫ぶことです。

私たちは、自分の中に罪を見る時、罪により滅びへと向かう隣人を見る時、耳に叫びの声が聞こえなければなりません。

聖霊様は、叫んでおられます。
耳をすませば、十字架の上でのイエス様の叫びが、リアルに聞こえてくるのです。

この悲しみの叫びによって、私たちは罪を避け、罪に向かう人に手を差し伸べ、十字架の愛を表現するものとなることを今日も期待します。

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