1月16日早天メッセージ

投稿者: | 2023年1月16日

おはようございます!
おはようございます。フィリピ3:1-9でした。

今日の個所は、ちょうど、私たちの教会の標題に続く、前半部です。

パウロの話す偽教師たちは、割礼を受けなければ、救われないという主張を続けていました。

それに対抗するために、パウロは自分の話をします。

肉に頼ろうとすれば、最も頂点にいるのが、私ではないかと告白していきます。

パウロはユダヤ人のエリート中のエリートでした。

肉の割礼もルール通り、受け継ぐ血も申し分がありません。

律法によって義とされるならば、誰からも非難されないほどだと、言います。

しかし、これらのエリートである背景は、キリストにあって、ナンセンスでした。

7節に論が転換します。

7節「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。그러나 무엇이든지 내게 유익하던 것을 내가 그리스도를 위하여 다 해로 여길뿐더러」

律法によって義とされるようなものは、全てが損失でした。

人間の努力など目に見えるものが、キリストのために何かをプラスすることは出来ないのです。

そのとおり、私たちは、キリストのために何かをしようと、愛そうと、仕えようとしますが、

実質的に、キリストに対して、何かをしてあげることは出来ません。

私たちができることは、キリストが愛している対象に向かって、キリストから受けた愛をもって行くことだけです。

「キリストゆえに全てを失った」という告白は、神の愛を受け取るときに、自分という存在が死んだ状態であるという意味です。

キリストゆえに失ったものは、本来、必要ないものであって、失ってよかったものでした。

逆に、キリストゆえに得るものすべてが、私たちに必要な神の恵みです。

キリスト共に死に、キリストと共に生きるパウロの姿がここにあります。

むしろ、死が無ければ復活が無いように、私たちが死ななければ、生きることが出来ません。

イエス様の十字架が躓きであるという意味は、命より、死が先に来るからです。

一方で、この死は、命が無ければ成立しません。

真実なる命を知っているものだけが、偽物を捨てて死を選ぶことが出来るからです。

「信じる者は、死んでも生きる」という約束は、今私たちに必要な約束です。

いくら肉によるものが無益なものであると知っていても、捨てられないのが、私たちの罪性です。

捨てた後に頂く神の恵み、神の命、神の全てが素晴らしいものであることを知らないといけません。

イエスキリストと出会ったものだけが、肉によるものをゴミだとして捨てることが出来ます。

今日、主が何をしてくださるのか、主が何を与えて下さるのか、

その主の恵みだけが私を生かしてくださることを信じて、求め、地上を歩むものとなりましょう。

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東京リビングストーン教会は、早天祈り会を行っている教会です。
毎日午前6:00~7:00までお祈りの時を持っています。