おはようございます!
おはようございます。フィリピ3:1-9でした。
今日の個所は、ちょうど、私たちの教会の標題に続く、前半部です。
パウロの話す偽教師たちは、割礼を受けなければ、救われないという主張を続けていました。
それに対抗するために、パウロは自分の話をします。
肉に頼ろうとすれば、最も頂点にいるのが、私ではないかと告白していきます。
パウロはユダヤ人のエリート中のエリートでした。
肉の割礼もルール通り、受け継ぐ血も申し分がありません。
律法によって義とされるならば、誰からも非難されないほどだと、言います。
しかし、これらのエリートである背景は、キリストにあって、ナンセンスでした。
7節に論が転換します。
7節「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。그러나 무엇이든지 내게 유익하던 것을 내가 그리스도를 위하여 다 해로 여길뿐더러」
律法によって義とされるようなものは、全てが損失でした。
人間の努力など目に見えるものが、キリストのために何かをプラスすることは出来ないのです。
そのとおり、私たちは、キリストのために何かをしようと、愛そうと、仕えようとしますが、
実質的に、キリストに対して、何かをしてあげることは出来ません。
私たちができることは、キリストが愛している対象に向かって、キリストから受けた愛をもって行くことだけです。
「キリストゆえに全てを失った」という告白は、神の愛を受け取るときに、自分という存在が死んだ状態であるという意味です。
キリストゆえに失ったものは、本来、必要ないものであって、失ってよかったものでした。
逆に、キリストゆえに得るものすべてが、私たちに必要な神の恵みです。
キリスト共に死に、キリストと共に生きるパウロの姿がここにあります。
むしろ、死が無ければ復活が無いように、私たちが死ななければ、生きることが出来ません。
イエス様の十字架が躓きであるという意味は、命より、死が先に来るからです。
一方で、この死は、命が無ければ成立しません。
真実なる命を知っているものだけが、偽物を捨てて死を選ぶことが出来るからです。
「信じる者は、死んでも生きる」という約束は、今私たちに必要な約束です。
いくら肉によるものが無益なものであると知っていても、捨てられないのが、私たちの罪性です。
捨てた後に頂く神の恵み、神の命、神の全てが素晴らしいものであることを知らないといけません。
イエスキリストと出会ったものだけが、肉によるものをゴミだとして捨てることが出来ます。
今日、主が何をしてくださるのか、主が何を与えて下さるのか、
その主の恵みだけが私を生かしてくださることを信じて、求め、地上を歩むものとなりましょう。
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東京リビングストーン教会は、早天祈り会を行っている教会です。
毎日午前6:00~7:00までお祈りの時を持っています。