6月20日の早天メッセージ

投稿者: | 2017年6月21日

おはようございます。今日は民数記17:1-15でした。

今日の個所は、新改訳ですと16章の中に入っていますが、新共同訳では17章にあります。民の反逆の話をまとめるか、それともアロンの役割の話をまとめるか、ふたつの視点で分け方が違うということでした。
とにかく、新共同訳では、17章として描かれています。

前半には、反逆して死んでしまったコラの子の香炉を集めて、祭壇の覆いを作る話です。
これは、二度と主から与えられた権威に対する反逆が起きないように、主が取り計らった結果でした。
主の御心は、懲らしめを通した滅びにあるのではないのです。
主は、それを通して民を正しい方向へ、もっと主の民としてふさわしいものとなることを期待されました。

 

〇真実なる祭司であるイエス様

しかし、また事件が起きるのです。
6節に、イスラエルの人たちの中でまた文句をいう人たちが出ます。
「あなたたちは主の民を殺してしまったではないか?」と言いました。
この人たちは、主の裁きに対して文句を言ったのでした。

もっというと、彼らは、主の裁きの後にある御心、民をもっと正しいものに作り変えるという御心が見えていませんでした。
未来に対する希望なしに、現実だけを見て判断した結果として、文句が口から出たのです。
出エジプトを体験し、何度も主の御心を見てきたはずでしたが、彼らはそれを受け止めることができていなかったのです。

10節を見ると、主は、もう一度この共同体に裁きを下そうとしていました。
そこでモーセは、アロンに民を贖うための行動をするように命令します。

モーセが民のために何かを行うのは、もう何回目だったのでしょうか?
ある時は、祈りで主に願い、ある時は、ただ沈黙で主にゆだねたりしてきました。

これらのモーセのとりなしの行動は、すべて祭司としてのイエス様のモデルでした。
イエス様は、私たちのための祈り手でした。
十字架では、沈黙のまま死まで従順され、ご自分をささげられました。

聖書は、今日の個所で、さらにもう一つのイエス様の祭司の型を見せてくださいます。

13節「死んだものと生きている者との間に立つと災害は治まった」と書かれています。
これこそが、祭司としての役割、型でした。

つまり、死んだものと生きたものの間に立ち、両者をつなぐ役割です。
イエス様は、十字架において、死んだものとなりました。
この時、私たちの目の前に、神が愛であることが表されました。
そして、死は滅ぼされたのです。

さらに、イエス様は復活されて、生きたものとなりました。
死んだものを、生きたものへと変える御業を、私たちに見させてくださいました。

ただ、理想を掲げて終わっただけではありません。
誰かに代わりにやってもらったのではありません。
ご自分が、実際に死んで、復活されたために、イエス様はまさに死んだものと生きたものの間に立っていらっしゃいます。
今でも、イエス様の捧げもの、十字架の死と復活は、なだめの香りとして、この世に漂っているのです。

 

これらを通して、私たちの贖いを完成された方であると、私たちは信じます。
生きて今日も死んだものと生きているものの間に立ってくださると、信じます。

私の中でそれは起こっています。
死へ向かう古い自分と、命へ向かう新しい自分の間に、イエス様は立っておられます。
罪を犯すのも、御心を行うのも、主がともにいらっしゃるのです。
罪と御心の間を行ったり来たりする私たちに、なんという慰めでしょうか?
これは、罪を犯しても、いつでも命へ導く準備が整っているということです。
そして、私たちは、独りで主の御業を行うものでもないということです。

さらに、それは私の外でも起こっています。
信じていない死んだ人と、信じて生きている人の間に、イエス様は立っておられます。
私がイエス様とともに行こうと思うならば、必ず、信じていない人のそばにいることとなるでしょう。
主とともにそこに立って、主とともにとりなしの祈りをささげ、主とともになだめの香りとしての信仰、希望、愛を表すものとして生きることを信じて期待します。