6月29日早天メッセージ

投稿者: | 2017年6月29日

おはようございます!
民数記21:10-20です。

〇もう振り向かないイスラエル
今日の個所は、イスラエルが、ピスガの山頂まで行軍するシーンを描いています。
この個所で重要なことは、ここに生き残っているイスラエルは、全員がモーセの作った青銅の蛇を見上げた人たちだったということです。

昨日の個所で、人たちを噛んで、死に追いやっていた蛇が、いなくなったとは書いていません。
「噛まれたものも、蛇を見上げると生きた」と書いてあるだけです。
おそらく、蛇はほぼ全てのイスラエルを噛んだのでしょう。そして、蛇を見上げたものだけが、生き残ったのです。

つまり、モーセの言葉、主の言葉を信じたものだけが、イスラエルには残されました。
出エジプトから、40年間、様々な苦しみを乗り越え、信仰のテストを乗り越えてきた精鋭たちだったのです。

10節から見る行軍は、もう荒れ野をさまようものではありませんでした。
まっすぐとピスガの頂、ネボ山へ向かっています。

今までは、エジプトに帰りたいという文句があったのですが、もう、イスラエルからその文句を聞くことはありませんでした。
まさに、信仰によって、贖われた民が、後ろのものを捨て、前を向いて、どんどん進んでいくという姿を見せているのです。
信仰者の歩みは、堂々と、大胆に行われていきます。

 

〇約束の地への到着としての井戸

そして、井戸がわきました。
その井戸は、16節のように、主が約束されたものでした。
17節、18節に「井戸の歌」が出てきます。

17-18節「井戸よ、湧き上がれ。井戸に向かって歌え。笏と杖とをもって。司たちが井戸を掘り。民の高貴な人がそれを深く掘った。」

このあたりには、湿地帯が広がっていて、それほど深く掘らなくても水が出る土地だそうです。
砂漠を歩いてきたイスラエルが、井戸が掘れるような土地へと導き入れられたのです。

水と言えば、今までは、モーセが岩を打ったり、オアシスや、川の水を飲んだりしていました。
これらは、一時的な水場に過ぎなかったものです。

しかし、井戸を掘ったということは、ここが住む場所だということをはっきりさせました。
実際、ルベン族が、このアルノン川の北側の土地を配分されています。

出エジプト以来、ついに、イスラエルは、約束の地に着いたのです。
それを象徴する出来事が、井戸を掘ったということでした。

しかも、井戸を何で掘ったのかと言えば、笏や杖で掘ったのです。
実際、笏とか杖で、井戸を掘りあてる人がいるでしょうか?
とても、簡単に、井戸を掘りあてたのです。
笏や杖は、権威の象徴であることも考えるべきでしょう。
権威者の主なる神様によって、この井戸は掘られているのです。

信仰をもって、導き入れられた土地は、生きるための水があふれ出る土地でした。

 

このことは、『既に、未だ』の主の国を望む私たちに、様々なことを語っています。

第一に、信仰によって、導き入れられる『未だ来ない主の国』は、生ける水で溢れる場所だということです。

この終末の希望を持ち続けているからこそ、私たちは前へ進めます。
後ろを見て、文句を言い続けたイスラエルではなく、前を見て大胆に行軍したイスラエルの違いは、まさに約束の地に対する希望と期待感でした。
『未だ来ない主の国』に対する希望があるからこそ、信仰をもって、現在の様々な苦しみと、信仰のテストを乗り越えることができます。

いつも、主の国が輝いて私たちに見えるからこそ、私たちは後ろのものを捨て、前へ行けると信じます。

 

第二に、信仰によって、『既に来た主の国』【も】、生ける水で溢れる場所だということです。

いま、私のいる場所も、生ける水があふれ出ます。
それは、私がまさに三位一体の神によって所有され、神によって囲まれているからです。
まさに笏と杖をもって、私たちを導いてくださるのはイエス様であります。
イエス様が、私の井戸を掘り、水をあふれださせて下さいます。

私たちは、この止まらない水のあふれでる井戸を、心の中に持っているからこそ、今日も生きることができるのです。

未来に希望が与えられた、私の中にも希望が与えられている。
今日生きることが出来るのは、この希望があるからだと信じます。
信仰、希望、愛。これは、溢れ出る水のように広がって行くのです。