おはようございます。
今日は、民数記22:31-40です。
〇今日までのバラム
先週の土曜日からバラムの物語に入っています。
バラクの王から、イスラエルを呪う要求を受けます。
バラムは、口ではできないと言いながら、バラクの使者を家に泊め、結局その要求をのんでしまうのです。
バラムはロバに乗って、バラクのところへ行こうとしました。
しかし、剣をもって立つ主のみ使いを見たロバが、三回止まるのです。
み使いが見えないバラムは、ロバを叱ってたたきました。
その時、ロバの口が開いて、「何でたたくのか」と、バラムに訴えかけるという不思議がやりとりがありました。
〇バラムの不信仰の応答
このやり取りの後、今日31節、バラムの目が開かれます。
彼は、主のみ使いを見て、ひれ伏しました。
さて、自分を殺そうと、剣をもっているみ使いに対して、バラムはなんといったでしょうか?
34節「わたしの間違いでした。あなたがわたしの行く手に立ちふさがっておられるのをわたしは知らなかったのです。もしも、意に反するのでしたら、わたしは引き返します。」
バラムという人は、口だけは誠実なことを言う人でした。
しかし、イスラエルの神に対する信仰はありませんし、心は神に従っていませんでした。
彼が誠実な、信仰あるかのような言葉を話すのは、まさに、自分が被害をこうむるかもしれないという神に対する恐怖からでした。
間違っていました!というのは、とにかく自分の命を守ろうとしたのです。
神のみ使いに、「意に反するのでしたら、私は引き返します」と言いながらも、実にバラムは行く気満々でした。
行って、バラク王から貰える報酬を望んでいたのです。
〇主の『行きなさい』は、どの『行きなさい』なのか?
このバラムの心を見抜いていた主は、答えられます。
35節「この人たちと共に行きなさい。しかし、ただわたしがあなたに告げることだけを告げなさい。」
この「行きなさい」という命令は、積極的な意味ではありません。
バラムが行く気満々だったために、「じゃあ、行っても良い」という消極的意味でした。
さらに言えば、「もう知らない、おまえ、勝手に行け。」というニュアンスです。
「ただ、お前の願いは許してあげるが、イスラエルを呪うことだけは許さない。
お前の心は違うかもしれないが、お前の口だけは私が告げることを告げさせる。」
このような主の意図が隠されているのです。
私たちは、不信仰の祈りであったとしても、主がそれを許可されることがある、ということを覚えなければなりません。
行っていいですか?御心ならば、引き返します。と祈ったとします。
普通の場合、バラムのように主から言葉がかけられることはありません。
何も起こりませんし、行く方へ物事がどんどん順調に進んでいきます。
だから、私たちは勘違いします。
ああ、この私の行く道が、主の御心なのだなと、思ってしまいます。
しかし、その時、私たちは、主から離れているのです。
主の「行きなさい」が、どの意味で行きなさいとおっしゃっているのか?
私はどのような心で、行くことを願っているのか?
行くか、行かないかの問題ではなく、その動機を探らなければ、なりません。
驚くべきことに、この不誠実なバラムから、主は御言葉を語られました。
バラムは、確かに主によって、尊く用いられたのです。
しかし、バラムの人生は、主の御心に背いていたため、滅びへと向かってしまいました。
バラムは『口だけ』の男だったので、『口だけ』が主に用いられるという皮肉がここにあります。
私たちは、そのように用いられてはなりません。
自分の意思、自分の願いが、どこから出てきたものなのか?
それは主に対する従順の心なのか?
それとも、ただ口だけなのか?
バラムは1歩止まって考えることができませんでした。
欲望に我慢できず、「行く」という選択をしてしまったわけです。
行ってから、御心じゃなければ引き返しますといっても、遅いのです。
私たちは、行動する前に、一度立ち止まって、自分の心を祈りの中で探るものになりましょう。
主は、求めれば与えてくださる方であると信じます。
行きたいという願いは、主の御心なのか、私の欲望なのか。
主の御心はどこにあるのか。
求め、与えられ、そして、進む1日としましょう!!