おはようございます。
デボーションの個所は、イザヤ書に移ります。
イザヤ1:1-9です。
預言書と言えば、イザヤが必ず思い浮かびます。
預言期間も、約60年と長いですし、預言量も膨大です。
〇著者イザヤについて
39章までの内容と、40章からの内容や文体が違うということで、後半部はイザヤが作者じゃないのではないか?という批判があります。
この説を唱える人は、第一イザヤ、第二イザヤ、第三イザヤと名前を付けることを好みます。
インターネットなどで見かけたら、ああ、批判者だなと思って気をつけてください。
ちなみに、このような批判は、聖書の記述における超自然的な預言を受け入れないところからきています。
彼らは、イザヤの口からキュロス王の名前が出ることを信じられません。
しかし、聖書はそのような超自然的現象に溢れた本です。
私たちは信仰によって、主の奇跡を受け入れています。
たとえ、文体が違ったとしても、60年という長い年月の預言の故に、イザヤの置かれる環境変化によって文体が変わってもおかしくもないのです。
イザヤ書においては、いわゆる聖書高等批判は、受け入れるに値しないものだと考えられます。
さて、アモツの子イザヤという名前から始まります。
伝統的に、このアモツはユダの王アマツヤの兄弟であったと伝えられています。
ということはイザヤは貴族だった可能性が高いのです。
なので、イザヤはエルサレムを中心に自由に活動することができました。
神殿や王宮に、出入りすることが許されていたと考えられます。
ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤ王の時代に活躍して、一般的にはBC745年からBC680年くらいの期間に及んでいると考えらています。
〇主からの告訴状というラブレター
今日の2節から9節は、イザヤ書の全体をきゅっと、一つにまとめたような箇所です。
66章の内容が、ここに隠されているといっても良いでしょう。
内容は、2節の一番最初の文にあります。
『天よ聞け、地よ耳を傾けよ、主が語られる。』
つまり、これは主なる神様を原告とし、イスラエルを被告とした「告訴状」なのです。
裁判における告訴状なのですが、実に、詩的な表現が使われています。
2節、3節の中に、並行法というヘブライ詩のテクニックが3回使われます。
2節、「わたしは子らを育てて大きくした。しかし、彼らはわたしに背いた。」
これは反対の意味の並行です。
3節前半「牛は飼い主を知り、ろばは主人の飼い葉桶を知っている。」
これは、同じ意味の並行です。
3節後半「しかし、イスラエルは知らず、わたしの民は見分けない。」
これも、同じ意味の並行です。
そして、分かるように、2節の反対の意味の並行が、3節の前後半の反対の意味の並行構造を作っているという美しい構造をしています。
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2節:A B
3節:AA BB
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告訴状なのに、このような詩の形をなぜ、主なる神様は取ったのでしょうか?
この告訴状は、イスラエルを訴えるという目的をなしてはいないのです。
イスラエルを有罪にするために告訴状が出されたのではありません。
そうではなく、詩ですから、ここには主なる神様の感情が丸出しになっています。
あぁ、イスラエルを大きくしたのに、私に背いてしまった!
この心の衝撃、寂しさ、痛みをこの詩は表現しているのです。
この痛みをイスラエル自身に分かって欲しい。
心にとめて欲しい。
これが、主の真意でした。
もちろん、イスラエルの罪は非常に重いものでした。
それは、4節から7節に表現の自由されています。
5-6節は人間の個人としての絶望が書かれています。
さらに7節は、社会としての絶望が書かれています。
自分の中も、外も絶望的な状況しかありませんでした。
それは、主なる神様を忘れてしまったイスラエルの罪によるものだったのです。
しかし、8節と9節に希望の光が見えます。
娘シオンが残されているのです。
これは歴史的な状況でした。
アッシリアは、北のイスラエルを滅ぼし、さらに南のユダを攻めました。
エルサレム以外のほとんどの町が滅ぼされてしまったのです。
しかし、エルサレムだけは、残っていました。
たしかに、それは畑の小屋のように弱弱しい存在でした。
しかし、列王記を見れば、一夜でアッシリア軍が全滅する奇跡を私たちは見ることができます。
そのみすぼらしい、エルサレムが用いられるのです。
そこから大逆転がなされるのです。
この残されたエルサレムこそが、主の希望であり、主の恵みでした。
イスラエルの罪は、ソドム・ゴモラのように、滅ぼされても良い程度のだったのです。
しかし、主なる神様は、イスラエルを愛し、憐みを与えて、逆転を与えてくださいました。
主は確かに、私たちの罪を告発し、訴える方であります。
私を罪に定める方は、唯一主なる神様だけでありましょう。
ただ、「お前は罪人である」という主の宣言は、私を裁くためのものではありません。
その罪に対する、主の悲しみ、痛みをわかってほしいがゆえの告発なのです。
私の中も外も、罪によってボロボロになります。
しかし、必ず主は、その中に一握りの信仰を残されるのです。
使徒パウロの言葉通り、主の愛は、肉体の死、いや霊的な死でさえも、私を引き離すことができないのです。
残された、ほんの一かけらの信仰。
それが、必ず逆転の中心として用いられるのです。
私たちは今日一日のなかでも、主にたくさんの罪を指摘されるでしょう。
私たちは未だに弱い存在だからです。
しかし、一筋の光が、必ず残されています。
逆転の奇跡が起こされる希望が、そこにはあります。
私たちは、罪に対する主の痛みと悲しみを受け入れ、
その中で主が愛によって残された希望を見出し、
主のみわざを体験するものとなりましょう。