今日は、イザヤ3:13-4:1でした。
13節から15節は、3章の前半部で語られた悲惨な現状の裁きの理由です。
指導者たちが腐敗したことが理由です。
彼らが、民に仕えるのではなく、自分の欲望のために働いていると宣言しています。
そして、16節から場面がガラリと変わります。
シオンの娘らという表現をもって、エルサレムを表しました。
このエルサレムが、18節から書かれているとおり、21個の装飾品で着飾って、男たちを誘っていることが書かれます。
美しいのではなく、「ケバケバしい」と日本語では表現できるかと思います。
歴史を見ると、私たちは理解ができます。
当時、南のユダの王様は、ときにアッシリアに頼ってみたり、ときにエジプトに頼ってみたりしていました。
本当は、主に頼らなければならなかったのです。
しかし、そうではなく、政治的な判断に頼りました。
自分を攻めようとする敵の敵に助けを求めていたのです。
この姿が、主から見れば、着飾って男を誘惑する女に見えたのです。
しかし、その着飾ったものは、裁きの日に、すべて取り除かれます。
24節は美しいながらも衝撃的な場所です。
『芳香は悪臭となり、帯は縄に変わり編んだ髪はそり落とされ晴れ着は粗布に変わり美しさは恥に変わる。』
「~となる」という表現が5回も繰り返されて、美しさが汚さへと変わることが強調されました。
そして、まさに捕囚の時に起こったわけです。
エルサレムが陥落し、バビロンに捕囚される時、すべての装飾品は奪い取られました。
エルサレムは燃え、死体が転がっていたでしょう。
そこには悪臭が漂い、美しさは恥へと変えられたのです。
イザヤは、この瞬間を直接的に預言しました。
さらに、この預言は、ヨハネの黙示録書かれる裁きの日、つまり、最後の日をも見たものとも言えます。
最後の日、大バビロンが倒れるのですが、この大バビロンはぜいたくな富を得ていました。
それが一瞬のうちに火に焼き尽くされることがヨハネの黙示録に書いてあります。
イザヤは、バビロン捕囚の姿を見ながらも、最後の日の姿を重ねて見ていたということです。
ぜいたく品が主の裁きによって取り除かれたからといって、もちろんぜいたく品そのものが悪いわけではありませんでした。
もしそうであったら、私たちは贅沢が罪だということになります。
牛丼にとん汁つけようかな…ということも言えなくなります。
そうではなく、そのような贅沢が心の高ぶりを生んでいたことに問題があるのです。
先週の主日のメッセージのように、持っているもので、主から頂いたものは無いということを忘れることで、高ぶりが生まれるのでした。
これは、目に見えるものだけではありません。
私の能力とか、時間とか、健康とか、目に見えないものも同じです。
私たちは、そのような贅沢品はどこから頂いたものなのか?それを何に用いるのでしょうか?
もし、それらが地上から来ると考えれば、主は悲しまれるでしょう。
もし、主のものであるとしながらも、自分のために用いるなら、同じく主は悲しまれるでしょう。
私たちはその時、捕囚されたエルサレムと同じとなります。
最後の日の、反キリストと同じなのです。
心高ぶらないで、この世で生きることは、ただ信仰によって可能です。
持っているもので、主からいただかなかったものはありません。
主のご計画の中で、主の恵みの真っただ中で、私たちは生きている。
天国では、全ての物が取り去られ、ただ神のみが残る世界です。
そこは、喜びと感謝、礼拝と賛美しか残されておりません。
その姿こそが、信仰でいきる私の姿となるのです。
私は主に握りしめられた、主のものであります。
ただ主のみが、私の生きる道だと信じて、天国の生き方を、今日地上で表すことを期待します。