8月22日早天メッセージ

投稿者: | 2017年8月23日

おはようございます。
今日はイザヤ6:1-13でした。

今日の個所はイザヤ書の中でも非常に有名な個所です。
ただ、もっとも間違って引用されるのも、この個所であると言われています。
8節が有名ですが、実に6章全体から見た、イザヤの召命をもう一度考えなければならないのです。

 

〇なぜ6章なのか??

何よりも不思議なのは、召命が6章という中途半端な場所にあることです。
それはこの召命が、イザヤの預言者としての召命ではない可能性を表しています。
つまり、これは言うならば再召命、預言者としての働きを正す召命であったということです。

さて、詳しく見ていきましょう。

 

1節のウジヤ王が死んだ年というのは、非常に重要な転換点でした。

ウジヤ王の時代にイスラエルは繁栄を迎えました。
ただ、彼は高慢になってしまい、最後は主によって重い皮膚病にされて死んでしまいます。
この後、イスラエルは国としての繁栄を失っていく、暗闇の時代を迎える象徴的な出来事なのです。

その時、イザヤは何を見たのでしょう?
主なる神様と、そこに仕えるセラフィムを見ました。

3節「聖なる聖なる聖なる、万軍の主」は、賛美歌になっています。

ヘブライ語で強調と言えば単語を2回繰り返します。
しかし、ここで2回では足りなかったのです。
もう1回加えて、3回も聖なると言っています。

3は完全数ですから、永遠に「聖なる」と、言っても足りない!という、意味が込められているのです。

主なる神様の聖さは、人間の表現では言い表せないものである。
世の聖さとは、かけ離れたものであることが強調されています。

そして4節が、この幻の体験の結論です。

4節「この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。」

神殿が揺れ動いていると表現されています。
しかし、実際に揺れ動いていたのはイザヤ自身でした。

今までの、イザヤが行ってきた預言、宗教、その根本が揺れているのです。

イザヤの人生そのものが、打ち砕かれて、全く新しいものへと作り変えられなければならなかったのです。

その告白として5節が出てきます。

5節「わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。」」

ここで、私の唇が汚れていると告白されています。
もちろん、口は人格を表しますから、これは自分の心や人格が汚れているという罪の告白であるとも言えます。

しかし、そうならば、自分の「心」が汚れていると、言うのではないでしょうか?
なぜ、わざわざ「唇」と告白したのでしょう。

イザヤは、幻を通して主を見たときに、悟ったのです。
今まで自分がしてきた預言の足りなさをです。

自分がしてきた宗教的な活動、神殿における礼拝、贖いの捧げもの、それらの全てが、主なる神様に足りないことを悟りました。

自分がしてきた預言の言葉が汚れていたのです。
そして、イスラエルの語ってきたみことばが汚れていたのです。

だから、イザヤは御言葉が語られてきた「唇」が汚れていると告白しました。

自分の預言活動は、何だったのか?
自分の宗教とは、何だったのか?
ガラガラと音を出しながら、それらが崩れていったのです。

 

私たちは、この体験を毎日する必要があります。

私たちは主を信じていると言います。
しかし、本当の主は、私が信じていると思っている主とは、まるで、かけ離れてた方です。

私がどんなに祈っても、御言葉をよんでも、宗教的な体験しても、それは主には到達出来ません。
それをはるかに超えた方、人には理解しがたい存在こそが、主だからです。

私たち側から、主に到達することは、クリスチャンだと言っても無理です。

だから、何が必要なのでしょうか?

主の臨在が必要です。
地から、私が、語るのではない。
天から、主が、語らなければなりません。

私たちは、今日も、主から語られるみことばによって、私が打ち砕かれ、揺れ動かされて、本当の主がなんであるか、知ることを期待します。

 

〇圧倒的な恵みとは何か?

そのときセラフィムが飛んできます。

6節「するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。」

イザヤは、ああ、どうすればよいでしょうか?とか、
ああ、主よ憐れんでください!とか祈っていないことに注目しましょう。

揺れ動かされているイザヤに、セラフィムが勝手にやってきました。
もちろん、それは主のご命令であったはずです。
セラフィムは、不義を取り去り、罪を贖う燃え盛る炭を持ってきました。
それが、イザヤの願いではなく、ただ主ご自身の願いによって、やってきたのです。

私たちは、恵みという物を、ちょっと勘違いしています。
恵みをください!恵みがあるように!と祈ることは、非常に重要なことでしょう。

しかし、その祈りに応えて、主が恵みを下さったように見えても、私たちはそれによって、主を動かしたと思ってはなりません。

もっと大切なことは何でしょうか?

実に、人生を作り変えるような、圧倒的な恵みは、いつどのように来るのでしょうか?

それは、私が祈ることもできない時に、主ご自身の方から一方的にやってくるのです。

イザヤの打ち砕かれたとき、もう祈ること力さえもないとき、恵みはやってきました。

私たちは、主が与えようとしておられる、圧倒的な恵みをこそ願い、弱い時にこそ、強いことを信じましょう。

 

〇イザヤの孤独で不思議な使命

8節から、主の使命が語られます。

8節だけが単独で用いられてしまい、召命のみことばとして良く用いられる個所です。
しかし、見てきたように、これはイザヤの再召命でした。
この中心部は、何よりも1~4節の主の圧倒的な体験にあることを忘れてはなりません。

しかも、イザヤは、預言するという使命を少し勘違いしていました。
彼は、「私が預言をして、人たちが主なる神様を知ることができるようにしたい!」という思いが、そこにはあったのです。

しかし、主が望んでおられた預言は、全く性質の異なるものだったのです。

9-10節にそれが語られます。
それは、イザヤの思っていたのと真逆でした。

語れば語るほど、人たちの心は固くなる。
語れば語るほど、悟らなくなり、鈍くなる…
そのような使命だったのです。

イザヤはすかさず、質問します。
主よいつまでですか?

11節から13節までが主の答えです。

この情景は、バビロン捕囚の姿であり、世の終わりである終末の姿でもあります。
自分の力を信じて誇っているユダヤ人の心が折れるときまでなのです。

主なる神様という存在が、人間の理性によって、もっと言えば、ありきたりな信仰によっては、悟ることができないことが、わかるまででした。

この個所で重要なのは、最後の個所です。

「しかし、それでも切り株が残る。その切り株とは聖なる種子である。」

この残された切り株から、何が出るのでしょう?
切り株から出るのが、「ひこばえ」なのです。
つまり、イエス様てす。

イザヤのいつまでですか?の答えは、簡単に言えば、主が来られる時までだということです。

それは再臨だけを表すのではありません。
人の心にイエス様が来られる時までをも意味しています。

私たちは、唇で主を証ししなければなりません。
主を知るということは、その主を語らないではいられないからです。
まさに、主ご自身が語る方だからです。

私たちがどんなに言葉を重ねても、本当の主の姿は理解してもらえません。
しかし、それはいつまでかが決まっています。
それは、人たちの心にイエス様が来られるまで、なのです。

人たちに私の言葉か受け入れられないとしても、私たちは、そこで弱くなってはなりません。

私たちは、十字架の言葉の愚かさを捨ててはいけないのです。
ティムケラー先生的にいえば、十字架のスキャンダルを、妥協してはならないのです。

その人に、イエス様が出会ってくださるその日を望みながら、理解はされないかもしれないが、十字架の愚かな言葉を語ることを、私たちは願うものとなりましょう。

イザヤは、どれくらい、自分の語りたいと思う事を、語りたかったのでしょう?
私も、自分の語りたい事だけ、語ることを願うでしょう。
しかし、それは預言者の使命ではないのです。

 

圧倒的な主の臨在。
圧倒的な主の恵み。
圧倒的な主の御言葉。

私たちは、人には理解されないかもしれないけど、信じている主を、
その人の心の中にイエス様が来られるまで、主が再臨されるその時まで、
語り続けることを願いましょう。