2016年6月16日早天メッセージ

投稿者: | 2016年6月16日

今日の朝のメッセージはネヘミヤ記9:1-8でした。

ネヘミヤ記は8章から、民の仮庵祭の様子が書かれています。
律法の書を朗読して初めて、仮庵祭を祝うべきであることを発見したイスラエルの民は、仮庵祭を喜びもって祝っていました。その間、ずっと御言葉が読まれ続けていたのです。
そして、今日の9章。祭りも終わって7月24日に、その喜びの祭りは悔い改めのムーブメントに代えられました。

2節『イスラエルの血筋の者は異民族との関係を一切断ち、進み出て、自分たちの罪科と先祖の罪悪を告白した。』

この悔い改めの業は、全くの聖霊様の恵みでした。
今までイスラエルは、偶像礼拝におぼれ、異邦人との結婚を通して、自らの血をけがしていました。隣人を愛するのではなく、隣人から奪い陥れていたのです。このような行為が、御言葉によって罪であることが指摘されました。聖霊様の恵みによってそれが罪であると浮き彫りにされたのです。

罪を罪だと認識したとしても、悔い改めには至りません。サタンは、罪を罪だと認識して、なお罪を行う存在だからです。
そこに絶対的で一方的な主の恵みがなければ、悔い改められないのです。聖霊様による、主への信仰、信頼が心の中に起こされてこそ、悔い改めは始まります。イスラエルの民は、仮庵祭を通して、出エジプトに至る主の恵みの御業を喜びました。祭りの間の律法の朗読を通して、自らの罪を悟るに至りました。

だから、彼らは断食をし始めました。断食するしか、方法がなかったともいえましょう。それくらいに自分たちの罪深さが聖霊様によって浮き彫りにされて、心を動かされていたのです。

そして、3節では、6時間を律法の朗読に費やし、6時間を悔い改めの時間に費やしました。民全体を巻き込む、大きな礼拝が行われたのです。

私たちは、断食したからと言って主の恵みが注がれるわけではありません。6時間聖書を読み、6時間祈ったとしても、何か体験することはできないでしょう。
それらの外に出てきた行為はすべて、副産物に過ぎないからです。

最も大切なのは、彼らの心が聖霊様によって動かされたという事実でした。しかも、主なる神様へ信仰を持ち、その聖霊様の働きを誰も妨げなかったのです。私たちにとっても、最も大切なことは、断食したり、御言葉を読んだり、祈ったりすることではありません。

最も大切なことは、聖霊様に動かされることを求めるか求めないか、そしてそれを受け入れるか受け入れないか。この一点にあるのです。

霊性はどのように高まるのでしょうか?それは、聖霊様の動きに、私たちが信頼して認めゆだねたときにほかなりません。けっして、断食したり、御言葉を読んだり祈ったりすれば霊性が高まるのではありません。もちろん、私たちが聖霊様が動かされるなら、そこに断食が生まれ、御言葉と祈りへの集中が行われるでしょう。

しかし、聖霊様を動かすために、それらのことをやるというのは何とも意味がないのです。イスラエルはただ、主の恵みの中に自らをゆだねたのです。ここに本質があります。その恵みが、6時間のみことばと6時間の悔い改めの祈りを生んだというだけのことです。

恵まれた人を私たちは作ることなどできません。聖霊様の働きを私たちがコントロールすることもできません。私たちができるのは、ただ、自分にノーといい、聖霊様にイエスということのみです。
そのとき、私の心が大いに動かされて御言葉へと、祈りへと大胆に進むことを体験するものとなりましょう。

 

5節から具体的な祈りの文章に入っていきます。6節からの祈りはエズラの祈りだと70人訳聖書では注釈されているようです。今日は中途半端に切られていますが、8節がそれ以降の祈りとつながる大切な言葉です。

8節『あなたに対して忠実なその心を認め彼と契約を結び子孫に土地を与えると約束された。カナン人、ヘト人、アモリ人ペリジ人、エブス人、ギルガシ人の土地を。あなたは約束を果たされた。まことにあなたは正しい方。』

イスラエルの歴史に介入されてこられた主は、正しい方である。これが信仰に必要な要素です。完全に主に信頼するに必要な要素です。主は正しい方であると信じなければ、自分の現在を良いものとして受け入れられません。
主が悪を許容されることは、世の中を見ればよくわかることですが、それさえも正しい御業のために用いられることを信じる必要があります。

どんなマイナスも、必ずプラスへの矢印が張られています。正しい方である主は、万事を益としてくださる主です。今なしている御業や許容が正しいものであると私たちは信じるしかありません。だからこそ、主への賛美しか私たちに残されたものはあり得ないのです。

今日も、聖霊様の恵みに、賛美をもって答える私と皆さんとになりましょう。

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