6月13日の早天のメッセージは、ネヘミヤ7:61ー72でした。
昨日からネヘミヤが帰還したイスラエルの民の数を数えています。
7:5を見てみると、主なる神様に心を動かされたネヘミヤが系図を記録する作業を始めています。
系図を記録するというヘブライ語は、歴代誌とエズラとネヘミヤ記にしか使われない言葉で、捕囚のあとの時代に限って特別に用いられました。イスラエルにとって、系図を記録するということは様々な意味がありました。大体において、新しいスタートの時に用いられる作業であったわけです。
捕囚から帰還して城壁も完成し新しく、生活が始まるその時に、系図を記録したのです。この記録によって、行政的に民を登録して、これからの政治的な仕事を任せたりすることに用いたのだと思われます。
61節には、先祖がイスラエルかどうかわからない者たちの数が書かれています。特に祭司であやふやな部族は祭司職自体をする資格が与えられませんでした。
これはもちろん、祭司でないものが祭司の働きをすれば、死を招くから、可能性でもあったならば排除するというネヘミヤの配慮であったと思われます。
自分のアイデンティティを捨ててしまった人たちは、共にイスラエルに戻ることができましたが、祭司としての職務は失いました。
イエス様は、自分とみことばを恥じる者は、私もその者を恥じるとおっしゃっています。主なる神様がどのように私達を扱われるか?それは実は私達がどのように神様を扱うかにかかっているということです。
主なる神様は無限で無条件な愛を私達に常に注いでおられます。恵みも限りなく私達に注いで下さっています。それは止まることがありません。
しかし、私がその愛を無視し、恵みを要らないと言えばどうなるでしょうか?
私の心と意思をどこまでも尊重される主は、要らないという私の意思を尊重されます。まるで、恵みなし、祝福なし、神様の愛なしのようになってしまします。それは主がお止めになったのではなく、私が拒否しただけなのです。
私たちは主に用いられるように願うでしょうか?主の祝福を受けようと願うでしょうか?
とすれば、主の愛の中で留まるべきです。主が用いられるままに、主の御心を認めゆだねるべきです。自らの心を成し遂げようとする者は、主の御心は成し遂げられないでしょう。
しかし、自らの計画にノーと言い、主の計画にイエスという者こそが、主の御業を見る事が出来ると信じます。
66節からは、献品の話が書かれています。城壁が完成するために捧げられた金品が記録されています。もちろん城壁は主の恵みがなければ52日での完成は不可能でした。
しかし、人たちが動いて、金品が集まる必要もあったのです。無から有をおつくりになる主が、人の持ち物を必要とされることは驚くべきことです。聖書は、小さな捧げものこそが大きく用いられる事を沢山記録しています。主は私が動くことを忍耐して待っておられるかたであります。
金2万ダリクは、8億円ほどの価値ですが、4万人の民が一人2000円程度の献金で成し遂げられる数でした。城壁を建てるという大きな事業ですが、小さな献金、献品、小さな奉仕から次々と大きく用いられていったのです。
主の働きは、小さいように思えてどんどんと大きくされていく者です。エゼキエルの見た幻のように、小川のような川が、全身を覆う大河となります。
その御業がいつも私に行われるように祈り求める者となりましょう。