6月7日の早天は、ネヘミヤ5:1ー13でした。
ネヘミヤ4章では外部の敵からの迫害にどう対処するかをネヘミヤはうまく切り抜けました。トビヤ、サンバラトなどの武力まで使った苦しみに、知恵をもって耐えきりました。
そして、5章では外部ではなく今度は、内部的な問題が生じます。
初代教会でさえも、救いに喜びをもって集まっていた集団でありましたが、すぐに食事の分配に対して問題が起きました。どの共同体にも、外部の問題と内部の問題とを抱えているものです。
御言葉は、どちらにも知恵をもって対処している共同体を記録してあります。今日の箇所でのネヘミヤの対処方法を見てみましょう。
1節に、ユダヤ人たちは強い抗議の声をあげました。この声をあげるという単語は、救いを求めて叫ぶ時と同じ単語が使われています。天にまで届く、悲痛な叫びが共同体にあったわけです。
その内容は、2節以下に書いてあります。城壁を立てるという公共事業をやっている中で、飢饉が起きたのですが、そこで貧しいものを助け合うのではなく、むしろその不幸の中で儲けようとする悪い者たちがいたのです。
高利で、金を貸し、ひどい場合ユダヤ人を奴隷とされたものもありました。これは完全なる律法違反でした。律法は、高利で貸すこと、ユダヤ人を奴隷にすることを禁止していたからです。民族のために戦っているなかで、個人の利益を求めるという反対する行為があったわけです。主の戦いの中において、このような私腹を肥やそうとする愛のない行為は起きえるということです。
問題はその対処法にありました。一歩間違えば、民族が分裂するような大きな問題であったからです。お金持ち側でも、貧乏な人側でも、文句は出ていたのです。
この訴えを聞いて、ネヘミヤはどうしたのでしょうか?
6節『この嘆きと訴えを聞いて、わたしは大いに憤りを覚え、』
まず、彼は正しく憤りました。正しい憤りを持っていることはリーダーとして重要な資質です。
なにより、イエス様が憤りを覚えて過ごされました。しかし、憤りをどのようにエネルギーに変えるかということがもっと重要な素質でした。この憤りをただ単にぶつけただけでは解決にならないからです。
モーセのように、民に対する憤りが主をなだめるモチベーションになったのであればよかったのですが、憤りで岩を2回打った時は、失敗しました。
この正しい憤りを正しい行いにもっていく知恵が求められました。ネヘミヤは、憤りを覚えてすぐ行動するようなことはしませんでした。
不思議と新共同訳では消えている個所ですが、新改訳を見ると7節『私は十分に考えたうえで』という役がなされています。原文では、自分自身に相談するという意味があって、よく考える、頭で黙想するなどの意味があります。
つまり、憤ってそのまま怒りの行動を起こさなかったということです。正しい憤りをどうすれば、正しい行動を起こせるかということに時間を費やしたのです。これこそが、祈りの人ネヘミヤの素晴らしさでした。
感情で行動するのではなく、ここにおいて主に知恵を求め、律法と御心を求めたのです。この自制の時間が、ネヘミヤを解決へと導きます。ネヘミヤは、大勢の前でお金持ちを非難して、律法を根拠にして非難しています。論理的に正しい非難は誰も言い返せない知恵があったのです。
さらに、ネヘミヤは自らが借金を帳消しにするという行動に出ます。ネヘミヤは献酌官でしたから、王の側近ということで財産はあったでしょう。だから、多くのお金や穀物を貸していたに違いありません。もしかすれば、どんなお金持ちより多く貸していたかもしれないのです。
それを自ら帳消しにする。誰も文句が言えず、全員がそれに従う誓いを立てることとなっています。自分を憤りに任せて、叱って強制的にやらせるという方法をネヘミヤは取りませんでした。
あくまで、祈り、考え、感情ではなく論理に訴えました。そして、自らが模範を見せて実行したのです。
正しい感情を主なる神様にぶつけながらも行動は慎重であったネヘミヤのように、知恵深く、祈り、歩む一日となることを期待します。