ハイデルベルグ信仰問答と、ウェストミンスター小教理問答を学びながら気が付いたことがある。
宗教改革の当時、カトリック教会は義認を、聖霊様の義の注入と考えていた。
つまり、義の注入は確かに恵みで起こるが、それは義人となることを意味している。
カトリックでは、これを義化と言っている。
カトリックの教えでは、信仰とは、救いの入り口に過ぎない。
信仰によって義となったクリスチャンが、自らの義の行いによって、いよいよ救いを確定させると考えていた。
これは、1992年のヨハネパウロ2世の出したカテキズムの中にも同じく述べられている。
「義化は何をもたらしますか。義化は回心と同じように二つの領域を持っています。まず、恵みによって人は神のほうに向きなおり、罪から離れます。その結果、罪の赦しと義(神との正しい関係)を神から受けます。義化は罪の許しと、聖化の恵み、内的刷新とを与えます。」
つまり、救いとは、神と人が協力体制にあって、二人三脚で救いが完成されると考えているのである。
義の注入によって、力が与えられ、その恵みの力によって御心にかなう良き業を行う事ができるようになる。
これを半ペラギウス主義とも呼ぶが、カトリックに特徴的な教理となっている。
この義化のカトリックのカテキズムを見ながら、衝撃的だったのは、これが自分の学んできた「聖化」と同じものだったことだ。
福音主義の名の下で教えられた聖化の教理は、つまり、
罪の悔い改めと聖霊の満たしによって、聖化の恵みが与えられ、内側が変えられ、外側に実りが与えられる、というものだ。
おっと、外見は義化と全く同じではないか…。
宗教改革者たちは、ただ恵み、ただ信仰、ただ聖書のスローガンのもと神学を考えていったが、義認を義の注入ではなく、義の転嫁と考えた。
ハイデルベルグ信仰問答60、61問
「私たちが義と認められたのは、イエスキリストの律法への服従による義が、信仰によって、あたかも、私たちが服従したかのように、私たちに転嫁されたからである。」
キリストの義が、私たちに転嫁されている。
私は義が注入されて義となるのではない、私たちは信仰を持ったとしても依然として罪人である。
そして、義人はイエスキリストのみであるという立場を貫いた。
もちろん、福音主義を採用するクリスチャンが、義認においてカトリックのような主張をすることはない。
信仰は救いのすべてであり、入り口だとは考えない。
私はいまだに罪人であると告白する。
しかし、聖化において、カトリックの義化のような教理に傾いた神学を教えることは、往々にしてあるのではないか。
義認は、救いの完成ではなく、そこからが信仰生活の始まりだと、教えられる。
聖霊様の満たしによって、聖霊様の力が与えられ、それによって良い業を行い、良い実りを結ぶ、と教えられる。
この聖霊の力が与えられるという言葉の中に、聖霊の力が”注入”されるという考えが入ってしまったならどうだろう…。
これは、もう福音主義ではなく、半ペラギウス主義である。
それはプロテスタントでは、もうない。
福音主義を貫くのであれば、聖化においても、イエスキリストの義は注入されるのではなく、転嫁されると考えなければ、筋が通らない。
しかし、福音主義と呼ばれるクリスチャンのかなりの人は、聖化をイエスキリストの義の注入、恵みの注入だと考えていないのだろうか?
聖霊様の力によって、私が聖く化け、大きくなり、良き行いができるようになって、良き行いをすると考えていないだろうか?
人生は神と人との二人三脚だと、神と共に協力して進むんだと考えているのではないだろうか?
それは、もう改革者が命をかけて守った福音とはかけ離れたものである。
義認も、聖化も、義の注入と考えるカトリックの教理に対し、このような傾いた福音主義は、義認を義の転嫁と考えるが、聖化を義の注入と考える。
義認においては、主なる神様の一方的な選びと恵みを考えるが、聖化においては恵みに満たされた人間の努力を考える。
ここに、奇妙な逆転現象が起きている。
恵みによって救われたのに、聖化されるために、努力して恵みを勝ち取ろうとし始めるのである。
一方的に義とされたのに、自らの足で神の聖さに到達しようと歩こうとするのである。
イエス様が何をなさったか?ではなく、自分が何をしたのか?が中心へと移って行ってしまう。
だから、私もイエス様のようになろうとか、私も偉大な信仰の偉人たちのようになろうとか、教えられるようになる。
偉大なのは、その信仰を持っていた人たちじゃない。
その信仰をお与えになった神様こそが偉大な方だという視点がすっぽり抜け落ちていく。
このような奇妙なねじれを考えるのではなく、
聖化においても、義が転嫁されるのだと考えればどうだろう。
私たちがするだろう善い行いは、キリストの善い行いそのものである。私の業ではない。
聖霊様の力によって、私が聖く化け、大きくなり、良き行いができるようになって、良き行いをするわけではない。
私は、未だに罪人であり、未だに小さいままであり、良き行いができない存在である。
しかし、キリストの義が、恵みが転嫁される。
キリストの業の中に、私の業が存在することになる。
まるで、イエス様の人性が、イエス様の神性の常に中にあって、絶対に外には出ないとカルヴァンが考えたようである。
できない私は、できるイエス様の恵みの中にしか、存在する場所がない。
私は小さいままだが、大きなイエス様に包まれているのである。
このとき、聖霊様の恵みは、私が大きくなるために用いられるのではない。
実に、その恵みは、私が小さいままでいるために用いられるのである。
そこで語られるのは、徹頭徹尾、イエス様が何者かであり、イエス様が何をなさったかである。
私たちは罪人であり、罪人であるからこそ、大きくなりたい、大きく見せつけたいと思うのが自然である。
アダムは、神様より自分を大きい存在だと思った、そのとき、罪を犯した。
聖化を義の注入と考えたいのは、この自分を大きくしたいという罪の欲求に即答えてくれるからではないだろうか?
聖霊様で満たされた私は、大きくて栄光に満ちていると、見せられるからではないだろうか?
しかし、自分が大きくなるとき、イエス様は小さくなっていらっるだろう。
これは危険である。
それは、主に栄光を表す(グローリファイは、大きくするという意味)ことのまるで逆を行ってるからだ。
そう、私はもう、大きくならなくていい。
大きくなることに努力する必要はない。
私は小さいままでいい。
むしろ、小さいままでいるために祈るべきじゃないだろうか。
罪人の私が、小さいままでいるという、最大の難問に挑戦するのである。
私が小さいままでいられるように、聖霊様が働いてくださることを信じて期待しよう。