8月28日早天メッセージ

投稿者: | 2017年8月28日

おはようございます。
月曜日のデボーションは、イザヤ9:7-20でした。

9章の後半部から、再び滅びの預言が続いていきます。
おそらくは10:4までが、一続きの預言として語られたのだと思われます。

それは、キーとなる繰り返しの句が出てくるからです。

「しかしなお、主の怒りはやまず御手は伸ばされたままだ。」
これが、今日の個所で、3回出て来て、そして、10:4で4回目が出てきます。

7~11節が、民の高慢について
12~16節が、長老などのリーダーについて
17~20節が、エフライムとマナセについて、となっています。

一つ一つの預言の言葉は、わかりにくいものではありません。
私たちが考えなければならないのは、なぜ、ずっと同じフレーズによって語られているか?ということです。
つまり、なぜ、主の怒りはやまず、御手は伸ばされたままなのでしょうか?

その答えは、12節にあります。

12節「民は自分たちを打った方に立ち帰らず 万軍の主を求めようとしなかった。」

愛の主権者であられる主なる神様が、私たちに苦しみを許容される時、それは必ず何らかの御心を伴っています。
まさに、9:6で語られた熱情が、その苦しみを許容されているわけです。

主に握りしめらることで満足しない私たちが、そこから逃げて他の物を求めるときに、その嫉妬とねたみは、何とかしようとして主のもとに戻そうとされます。
それが、ときに(全部ではないのですが)、私たちの苦しみとして表される時があるということです。

預言を私たちはかみしめなくてはなりません。

堅固な家を作っても無駄です。
希望の光である若者も、希望をうしないます。
同胞が同胞を襲うという、究極のエゴが許されてしまいます。

どんなに、この世で頑張って、一生懸命しても、主抜きでは虚しさだけが残ります。

私たちは、クリスチャンでイエス様を知っているのだとしても、同じ虚しい道へ入ることが多々あるということです。
主に選ばれたユダヤ人が、今預言で、主から離れているのですから。

クリスチャンとしての成功という物を考え直す必要があります。
私たちの成功的人生とは何でしょうか?

それはもちろん、インマヌエル、つまり、主が私と共にいらっしゃることです。
しかし、もっといえば、主のおられる場所に私がいることです。
主の働かれるその瞬間に、私もそこで働いていることです。

それ以外のすべては、虚しいものでしょう。
使徒パウロは、愛がなければすべては無に等しいと告白しました。
まさに、その通り、愛である方、愛の源であり、愛をそそがれる方、三位一体の神がいらっしゃらなければ、すべては無なのです。

私たちは、世で成功を収めるかどうかは、主が私の人生をどのようにお考えであるか、わかりませんので、ゆだねるしかありません。

成功する人もいれば、成功しない人もいるでしょう。
これはどちらにしろ、私にとっての幸せであるゆえに、感謝でしかありません。

しかし、クリスチャンの成功を収めるかどうかは、答えがはっきりしています。

私が、主に立ち返り、主を求めるかどうか?
これだけが、クリスチャンの成功を決めます。

私たちは、世の失敗者となろうとも、クリスチャンの失敗者には絶対になってはならないのです。
熱情の神が語る、これ以上の御心はありません。
主に立ち返り、主を求めることを、もう一度新しく決心する私と皆さんとになりましょう。

 

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東京リビングストーン教会は、早天祈り会を行っている教会です。
毎日午前6:00~7:00までお祈りの時を持っています。