おはようございます。
今日は、イザヤ28:1-8でした。
28章「災いだ」から始まります。
この単語は、「ああ!」という嘆きの意味があります。
イザヤは、詩的な表現を通して、人たちの心に語りかけているのでした。
エフライムは、サマリアを代表する表現でした。
サマリアは、非常に豊かな谷にあって、真ん中にある小高い丘に建てられていました。
ですから、サマリアは王冠のように見えたのでしょう。
しかし、1節のように、冠のような美しいサマリアが、花がしぼむように枯れていくです。
1、2節と3、4節にこれが繰り返されることで、サマリアの美しくも、はかない、虚しい滅びが強調されています。
28章の中心的な内容は、サマリアの指導者たちが堕落していることでした。
明日の個所では、その指導者たちとイザヤとの対決が描かれるようにです。
ただし、サマリアの滅びは、指導者たちの罪によるものでしたが、そこには希望も残されています。
それが、5、6節です。
5節「その日には、万軍の主が民の残りの者にとって麗しい冠、輝く花輪となられる。」
サマリアは、滅びゆく冠でした。
しかし、民の残りの者にとっては、主が冠だったのです。
指導者が堕落し、国全体が主から離れていたサマリアです。
しかし、その中にあっても、指導者や国のことを嘆いて、主に対して祈る民はいたのです。
イザヤのように預言者として声をあげなくても、
そこには、声なき声があり、見えない祈りの姿はあったのです。
主はこのような者たちをお忘れになりません。
サマリアという反逆の世界において、神への希望、信頼を失わなかったものに、これは、慰めに満ちた預言であったでしょう。
さらに、イザヤ以後の人たちにも、意味がありました。
サマリアが滅ぼされた後、エルサレムがアッシリアの攻撃から、一夜で勝利を収めるという御業があったからです。
エルサレムでイザヤの預言を読んでいたものにとって、この預言は希望だったに違いありません。
もっと言えば、捕囚に取られて、バビロンで過ごしていた人たちにとっても、このイザヤの言葉は、大きな希望だったのです。
いつの時代においても、
指導者たちが酒飲みのように判断を誤って、国が主なる神から離れるように見えたとしても、
その中で、主を信じ、主の中で生きようとするものに、希望は残されています。
ですから、私たちは、どのような環境、状況にいるか?が、大切ではありません。
この世で、良い場所、悪い場所なんてないからです。全てが悪い場所なのですから。
最も大切なのは、私と主が出会っているか、
私は主と向き合っているか、
私は主を本当に信じられているか、
ということです。
サマリアの指導者たちは、7,8節に書かれるように、酒を飲み、判断を誤りました。
世は、主に対して正しい判断はできません。
世の生き方というのは、こういうものです。
主の御前で、ふらふらと歩いて、舌も回らない、罪の記憶もない、罪も感じない生き方です。
最後に残るのは、人が吐いた汚物だけなのです。
使徒パウロは、酒に酔っている状態と、聖霊に満たされている状態を比較しました。
何より、大切なのは、酒に支配されるか、聖霊に支配されるか、という選択なのです。
主の御前で、鈍く鈍感に生きるのか?それとも、鋭く敏感に生きるのか?
主に出会うということは、人にはとらえがたいものです。
主に出会うということは、簡単に崩れ去ってしまうものです。
だからこそ、聖霊様によって支配され、私たちは、主に希望を持たなければなりません。
この世から見れば、壊れやすく、何ともとらえ難い信仰、つまり、主への出会いは、
主なる神様から見れば、しかし、これ以上になく強く、これ以上になくはっきりとしたものとして、私たちに与えられます。
さて、私たちは、今日、どちらを選択して生きるのでしょうか?
神ご自身に引っ張られて、主に対する希望と信頼をもって生きるのでしょうか?
それとも、自分自身の力で、私に対する希望と信頼をもって生きるのでしょうか?
天に支配されて生きるのか?
世に支配されて生きるのか?
神の栄光を残すのか?
人の汚物を残すのか?
私たちは、すでに、神の栄光の中にいます。
なぜ、わざわざ、人の汚物の中に進み出るのでしょうか?
神が私の冠であり、神に支配され、神に引っ張られる今日一日を歩むことを信じて、期待しましょう。
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東京リビングストーン教会は、早天祈り会を行っている教会です。
毎日午前6:00~7:00までお祈りの時を持っています。