おはようございます。
今日はイザヤ32:1-8でした。
32章は、イザヤの第4の説教と呼ばれる個所です。
ここには、メシアの預言が、希望の預言が書かれています。
「見よ」から始まる1節は、一人の王が素晴らしい統治をすることが預言されます。
歴史的にはヒゼキヤ王であると考えることもできなくはありません。
ただ、この王の偉大さを強調する仕方は、人間である歴史上の王を表す表現としてはふさわしくありません。
ここは、王の王であるメシアを示す預言であると考えるのが自然でしょう。
2節から5節にあるとおり、正義と公平をもって支配するメシアの統治は、シャロームの実現した素晴らしい世界です。
千年王国の統治や天国での統治が、私たちには思い起こされます。
6節、7節は、それと対比されて、愚か者が統治することがいかに悪しきものであるかが描かれます。
ここに対比されているのは、「愚か者」「ならず者」と「高貴な人」です。
愚か者は、神を知らない者であり、高貴なものとは神を畏れ正義と公平を愛する者です。
非常に重要なことは、私たちは愚か者であったが、クリスチャンとなったことで、神を知る高貴なものとなったことでは【ない】ということです。
真実は、どうでしょうか?
私たちは、クリスチャンとなっても、「未だに」愚か者であり、
そして、愚か者であり「続ける」ということです。
ただ、私たちクリスチャンには、高貴な方である主イエス・キリストが味方として、弁護者として、私と共にいてくださるということだけなのです。
8節「高貴な人は、高貴なことをはかり、高貴なことを擁護する。」
何だかよく分からないのですが、新改訳が簡単に訳しています。
「高貴な人は高貴なことを計画し、高貴なことをいつもする。」
イエス様は、いつも高貴なことを計画され、いつも高貴なことをされます。
もっと言えば、イエス様は、高貴なことを計画しないことが出来ません。
イエス様は、高貴なことをしないということが出来ません。
なぜならば、イエス様は神ご自身であり、神としての人だからでありました。
神は愛である限り、愛のために働くこと以外のことを、なさらないからです。
私たちは、6,7節にあるように、愚か者の虚しいたくらみをするに過ぎ無いでしょう
しかし、私の中で、私の外で働いてくださる主は、高貴なことしかなさらない方です。
この方を、信じても良いのではないでしょうか?
この方に、より頼んでもいいのではないでしょうか?
それこそが、愚か者である私たちに与えられた唯一なる希望です。
主は、私たちを背負って下さいます。
高貴な計画を見せてくださり、高貴なみわざに参加させてくださるでしょう。
今日、私の生きる現場で、まさにその事が起こると期待していくことを願います。
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東京リビングストーン教会は、早天祈り会を行っている教会です。
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