おはようございます!
今日はイザヤ36:1-12でした。
36章から39章までは、預言ではなく、歴史的な記録が記されています。
これは、39章までの前半部と、40章からの後半部をつなぐ橋です。
36:1と、2列王18:13は、ほぼ同じ表現です。
これはBC701年のことで、世界史的にも、アッシリアがエルサレムへ迫ってきました。
イザヤ書36:1と2節の間に、2列王18:14-16が省略されています。
列王記によると、ヒゼキヤ王は一度、無条件降伏をしてアッシリア王に税金を払っている場面が描かれています。
さらに、1節と2節の間には、12,3年の年月が経過していると考えられています。
その間に何があったかというと、2歴代誌32:2-8が起こったと思われます。
これは、バビロンとエラムがアッシリアに反乱していたことを知ったヒゼキヤが、反アッシリア同盟に加わって、エジプトに援軍を頼んだという内容でした。
最初は、無条件降伏して税金を納めていたヒゼキヤが、逆に反アッシリア同盟に加わったので、アッシリアの王はエルサレムへ大軍を送ったのでした。
これが、2節なのです。
このようにヒゼキヤの態度を、順番に考えると、今日のラブシャケの脅迫に意味があるように聞こえてきます。
ラブシャケは、この言葉から始めています。
「大王、アッシリアの王はこう言われる。」
彼が知っていたか知らなかったかは、わかりません。
しかし、この言い方は、まさにイスラエルの預言者と同じでした。
イザヤも「イスラエルの聖なる方はこう仰せられる」と預言を始めたからです。
ラブシャケには、自分の話している言葉こそが、神の言葉より権威があるのだという意図がありました。
ただ、皮肉なことに、ラブシャケの脅迫には、神のメッセージが隠されることになるのです。
それが5後半-6節
「今お前は誰を頼みにしてわたしに刃向かうのか。今お前はエジプトというあの折れかけの葦の杖を頼みにしているが、それはだれでも寄りかかる者の手を刺し貫くだけだ。」
もちろんラブシャケは、エジプトを頼りにするのではなく、アッシリアの王を頼りにしなさいという意図です。
しかし、この、「今お前はだれを頼みにして私には向かうのか。」という言葉。
まさに、アッシリアに税金を払い、そして、エジプトに頼っていたヒゼキヤの心に突き刺さったのではないでしょうか?
7節「お前は、『我々は我々の神、主に依り頼む』と言っているが、ヒゼキヤはユダとエルサレムに向かい、『この祭壇の前で礼拝せよ』と言って、その主の聖なる高台と祭壇を取り除いたのではなかったか。」
エジプトにより頼むのか、主により頼むのか?どっちなんだ?
異邦人であるラブシャケから見ても、ヒゼキヤ王のしていることは、矛盾しているように見えたのかもしれません。
このラブシャケの問いかけは、ただの問いかけではありません。
ここには、ラブシャケの人間的な意図をはるかに超えて、主なる神様こそがヒゼキヤに問いかけたのです。
ラブシャケが戦略的な脅迫の言葉のなかにでさえ、主は神の言葉を語られました。
異邦人の口から神の言葉が語られるなんて、なんという皮肉でしょうか。
逆に言えば、なんという恵みでしょうか?
主なる神様は、私たちの信仰を呼び戻し、チャレンジするためには、なんでもなさるお方なのです。
もちろん、聖書から語り、メッセージで語り、賛美で語られます。
私たちの人生そのものから語り、そして、ノンクリスチャンの口を借りてでも、主は語られます。
主が私たちを愛する方法には、全く限界が無いということです。
何とかして、主と出会うように導き、何とかして、世ではなく主を信じるように導いておられます。
ヒゼキヤは、確かにアッシリアに頭を下げ、エジプトにより頼みました。
間違った選択をそこでしたのですが、しかし、彼は主を忘れなかったのです。
主を忘れないヒゼキヤに対して、主ご自身がヒゼキヤを忘れられることはありません。
アッシリアの大軍を送り、ラブシャケの言葉にメッセージを込め、さらには、この大軍が全滅する御業を起こして、ヒゼキヤの信仰を守ろうとされます。
私たちは罪人であります。
今日も数々の失敗をして、口を通して賛美ではなく、呪いが出てくるでしょう。
しかし、私が主を忘れなければ、主は私たちをお忘れにはならないのです。
あらゆる手段を通して、私を引き戻し、信仰を守り導こうとされます。
だから、私たちは、期待して良いのではないでしょうか?
喜んでいいのではないでしょうか?
いつでも主よ、神の言葉を語ってくださいと、喜んで祈る私たちに成りましょう。
恵みと感謝で、主の導きを受け入れることを願います。
――――――――――――――――――
東京リビングストーン教会は、早天祈り会を行っている教会です。
毎日午前6:00~7:00までお祈りの時を持っています。