10月17日早天メッセージ

投稿者: | 2017年10月17日
おはようございます!
今日は、イザヤ38:9-22でした。

今日の個所は、ヒゼキヤが病気から回復した時に記した感謝の歌です。
ちなみに、ヒゼキヤの病気は、ラブシャケのエルサレム包囲より前の出来事でした。
40章以降のバビロン捕囚以降の預言につなげるために、わざわざ後ろになっていると考えられています。
時間がバラバラなので、少し注意することが必要です。

さて、この祈りは、11-15節の絶望的な現実から始まります。
しかし、16節を境に、一変。
17-19節までの賛美と感謝に変化しています。
そして、20節の主に対する決意を示して終わります。

様々なポイントがありますが、今日は、絶望から、感謝に転換する祈りを味わいましょう。

16節「主が近くにいてくだされば、人々は生き続けます。わたしの霊も絶えず生かしてください。わたしを健やかにし、わたしを生かしてください。」

ヒゼキヤは、死ぬべき人間の罪を知っていました。
同時に、死は神の命へと変えられることを信じていたのです。

ヒゼキヤは、復活の主も知りませんし、聖霊様の働きも知りません。
しかし、ヒゼキヤの祈りは、見事に神の働きを告白しています。

17節に「罪を全て後ろに投げ捨ててくださった」と書いてあります。
まさに、贖い主に対する祈りです。

しかも、過去形になっていますから、イエスキリストの十字架をすでに終わったことのように、ヒゼキヤは信仰告白している訳です。

死という最終的な絶望を前に、希望は、どこにあるのでしょうか?

むしろ、17節の最初では、この死という苦痛こそが、平和、いわゆるシャロームのために与えられたと告白されています。

つまり、死という絶望が、『次に』、希望に変わるというのではありません。
死という絶望の、『中に』、平和を見出すことができるとヒゼキヤは告白しているのです。

これは、イエスキリストの十字架をハッキリと見ている祈りです。

イエス様は、十字架の死という絶望の中に、真実なる平和を私たちに見させて下さいました。
死が滅ぼされる瞬間を、私たちは十字架の上に見るからです。

死の淵で見える命の希望、苦痛の中で与えられる神の平和、これらの証拠は、イエスキリストの十字架にあります。

驚くべきことに、ヒゼキヤは、インマヌエルの主さえも告白しています。

「主がいて下されば、人々は生き続けます。私の霊も絶えず生かしてください。」

この祈りは非常に味わい深い祈りです。
まさに私たちが、今日、明日、そして永遠に、なすべき祈りです。

私たちは祈りましょう。
主が、いつも私と共にいてくださることを。
そして、死にゆく、私の霊を生かしてくださることを。

命の息が、今日も私に吹き、生き生きと主を賛美し、神のシャロームの中を、生きることを信じて期待します。

 ――――――――――――――――――東京リビングストーン教会は、早天祈り会を行っている教会です。
毎日午前6:00~7:00までお祈りの時を持っています。