今日は、イザヤ38:9-22でした。
今日の個所は、ヒゼキヤが病気から回復した時に記した感謝の歌です。
ちなみに、ヒゼキヤの病気は、ラブシャケのエルサレム包囲より前の出来事でした。
40章以降のバビロン捕囚以降の預言につなげるために、わざわざ後ろになっていると考えられています。
時間がバラバラなので、少し注意することが必要です。
さて、この祈りは、11-15節の絶望的な現実から始まります。
しかし、16節を境に、一変。
17-19節までの賛美と感謝に変化しています。
そして、20節の主に対する決意を示して終わります。
様々なポイントがありますが、今日は、絶望から、感謝に転換する祈りを味わいましょう。
16節「主が近くにいてくだされば、人々は生き続けます。わたしの霊も絶えず生かしてください。わたしを健やかにし、わたしを生かしてください。」
ヒゼキヤは、死ぬべき人間の罪を知っていました。
同時に、死は神の命へと変えられることを信じていたのです。
ヒゼキヤは、復活の主も知りませんし、聖霊様の働きも知りません。
しかし、ヒゼキヤの祈りは、見事に神の働きを告白しています。
17節に「罪を全て後ろに投げ捨ててくださった」と書いてあります。
まさに、贖い主に対する祈りです。
しかも、過去形になっていますから、イエスキリストの十字架をすでに終わったことのように、ヒゼキヤは信仰告白している訳です。
死という最終的な絶望を前に、希望は、どこにあるのでしょうか?
むしろ、17節の最初では、この死という苦痛こそが、平和、いわゆるシャロームのために与えられたと告白されています。
つまり、死という絶望が、『次に』、希望に変わるというのではありません。
死という絶望の、『中に』、平和を見出すことができるとヒゼキヤは告白しているのです。
これは、イエスキリストの十字架をハッキリと見ている祈りです。
イエス様は、十字架の死という絶望の中に、真実なる平和を私たちに見させて下さいました。
死が滅ぼされる瞬間を、私たちは十字架の上に見るからです。
死の淵で見える命の希望、苦痛の中で与えられる神の平和、これらの証拠は、イエスキリストの十字架にあります。
驚くべきことに、ヒゼキヤは、インマヌエルの主さえも告白しています。
「主がいて下されば、人々は生き続けます。私の霊も絶えず生かしてください。」
この祈りは非常に味わい深い祈りです。
まさに私たちが、今日、明日、そして永遠に、なすべき祈りです。
私たちは祈りましょう。
主が、いつも私と共にいてくださることを。
そして、死にゆく、私の霊を生かしてくださることを。
命の息が、今日も私に吹き、生き生きと主を賛美し、神のシャロームの中を、生きることを信じて期待します。
毎日午前6:00~7:00までお祈りの時を持っています。