おはようございます。
台風は既に、去ったようですね!
今日は、詩編53:1-7でした。
今日の詩篇53篇は、14篇とほとんど同じ内容です。
違うのは5節だけで、同じ状況を歌ったのだとされます。
この詩篇が有名なのは、1節が、使徒パウロがローマ書3章10節以下で引用されているからです。
その背景としては、異邦人に囲まれているイスラエルというテーマが歌われています。
2節「神を知らぬ者は心に言う「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。」
この時代の「神はいない」という表現と、私たちの時代の「神はいない」という表現は全く別物です。
この時代においては、神はいないと言えば、自分の信じる神が真実な神であり、相手の信じる神は偽物であるという宣言でした。
すべての人が、なんらかの神という存在を信じていたわけです。
現代において、「神はいない」というセリフは、まさに神という存在がないのです。
ただ、現代の「神はいない」というセリフも、イスラエルの神が偽物であるという意味に変わりはありません。
神を認めないものは、結局は、世の神でない「何か」に頼り、それを信じているからです。
1つ、考えたいのは次のことです。
この世に、神の居場所なんて、あるのでしょうか?
3節のように、神は天から地を見渡されますが、どこにも神を求める人はいません。
とすれば、この世のどこにも、御心にかなう人はいません。
もちろん、そのような場所も無いのです。
つまり、「この世に、神の居場所はない」。
これは、否定できない、真理だと認めざるを得ないでしょう。
では、神はこの世と無関係に存在される方なのでしょうか?
答えはノーです。
ただ一点、いや、ただおひとりと言った方がいいでしょう。
そのとおり、イエス様が、神とこの世との接点でした。
神であり、人であったイエス様だけが、神がこの世に関わり、この世で働かれることをお示しになったのです。
この世において、まさにイエス様ご自身が、神の居場所なのです。
私たちは勘違いしやすいところです。
クリスチャンである私の中には、神の居場所はありません。
もちろん、教会の中にも、神の居場所はありません。
私たちクリスチャンや、教会に直接神が触れられる場所は、ただ一つもないのです。
「にもかかわらず」、お一方だけは違います。
イエス様は、この世にいらっしゃいました。そして、今日も、明日も来られるのです。
イエス様は働きを止めることがお出来になりません。
この世に居ることは出来ないので、いつも、この世へ来られるのです。
正確に言えば、イエス様の霊である聖霊様が、来られます。
イエス様は、クリスチャンである私の中に、来られます。
私たち教会の中にも、今日も来られます。
イエス様を通して、私の中は神の居場所として作り変えられます。
イエス様を通して教会は神の臨在を体験するのです。
荒れ野に道を作り、砂漠に大河を流される主は、神の居場所なき世に、ご自分を表されるのです。
これこそが、神なき世に生きる私にとっての希望です。
7節にうたわれるのは、この希望です。
7節「どうか、イスラエルの救いがシオンから起こるように。神が御自分の民、捕われ人を連れ帰られるときヤコブは喜び躍りイスラエルは喜び祝うであろう。」
シオン、つまり天、主がいらっしゃる場所から、主が来られるのです。
今日、私の人生の現場に、イエス様が来られることを期待しましょう。
その現場こそが、神の居場所と作り変えられるのです。
そのとき、私たちは、主を喜び踊り、その御業に感謝ささげるものとなることを願います。
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東京リビングストーン教会は、早天祈り会を行っている教会です。
毎日午前6:00~7:00までお祈りの時を持っています。