11月6日早天メッセージ

投稿者: | 2017年11月6日

おはようございます。
今日は、アモス5:1-13でした。

5章は、3章から始まる、イスラエルに対する主の告発文の3番目です。

1~3節の、滅びの哀歌から始まります。
アモスの預言は、BC750年頃です。
つまり、イスラエルが滅びるのは、約100年後の出来事でした。

しかも、アモスの時代は、南も北もソロモン王以来の繁栄を誇っていた時期でした。
繁栄のど真ん中で、葬式の歌を歌うという、強烈な預言が5章です。

この告発文は、イスラエルが誰を求めているか?という問いかけでした。

4,6節に同じ言葉が出てきます。

「主を求めよ、そして生きよ。」

これが、5章の中心です。

求めよ、という単語は、ヘブライ語では、3種類の動詞が用いられます。
理性的なダーラシュ、感情的なバーカシュ、全身全霊を傾けるシャーアルです。
5章では、ダーラシュが用いられています。

ちょうど、使徒パウロが昨日のメッセージ個所、1コリント14:1に書いたのと同じです。
「愛を追い求めなさい」と命令している、この「追い求めなさい」がそれです。

ダビデも、パウロも、今日のアモスも、同じ命令をしています。

 

イスラエルは主を求めずに何を求めていたのでしょうか?
それが5節に出てきます。

5節「しかし、ベテルに助けを求めるな。ギルガルに行くな。ベエル・シェバに赴くな。ギルガルは、必ず捕らえ移され、ベテルは無に帰するから。」

これらの都市は、偶像礼拝の中心地でした。
イスラエルは、主が自分たちを愛してくださっていることを無視して、他の礼拝の対象を追い求めていたわけです。

主から頂く愛以外のものを追い求める時、結局、自分の利益を追い求めるようになります。
その結果が、10-13節でした。

 

「情け(なさけ)は人の為ならず」という日本語があります。
これは、他人に情けをかけると、必ず自分に返ってくるという言葉です。

ですから、他人に優しくするモチベーションが、優しくされたいから、というものとなります。

これを突き詰めると、自分の利益のために、人を助け、人を愛するということになります。
しかし、これはもう、主の愛とかけ離れていることに私たちは気が付くでしょう。

 

罪人である私たちにとって、時に、条件付きの愛の方が安心感がある時があります。
山上の垂訓を聞いて、今でもドキッとするのは、神の不安定な愛が、私の求める安定な愛と離れているからです。

一見、バランスの取れたように見える愛、ギブ&テイクの愛。
これが私たちの罪が追い求める、間違った愛だからでした。

しかし、主の愛は、アンバランスです。
全然、バランスがとれていません。

ただ、神ご自身が損をし、神ご自身が忍耐されております。
それでも、私たちに命を与えるために喜んでおられるのが、主です。

 

神の愛は、神から私に向かっている、一方通行の矢印です。

私たちは、私が主を求める前に、主が私を求めていることを信じましょう。
主が私を求め、神の愛を私に注いでいらっしゃるから、私は主を探すことができます。

その愛を求め、その愛の中で生きることができます。

クリスチャンの人生は、非常にアンバランスです。
私たちは喜んで自分の利益を捨て、喜んで損をし、喜んで死ななければなりません。

しかし、このアンバランスの中にこそ、私たちの最も恵みある、最も祝福ある、生活が隠されています。
それは、神ご自身が歩まれた道であり、神の愛そのものだからです。

 

主を求めよ、そして、生きよ。

私たちは、この天の秘密を、明らかにする人生を歩むものとなることを信じます。

――――――――――――――――――

東京リビングストーン教会は、早天祈り会を行っている教会です。
毎日午前6:00~7:00までお祈りの時を持っています。