おはようございます。
今日は、アモス5:14-27でした。
昨日に引き続き、5章の主による告発文です。
正義を行わずに、不正を行っている民を、攻め立てております。
特に16節から始まる滅びの預言ですが、『主の日』という特別な預言をしています。
18節「災いだ、主の日を待ち望む者は。主の日はお前たちにとって何か。それは闇であって、光ではない。」
イスラエルにとって、主の日は、栄光に輝く救いの日、勝利の日を意味していました。
待ち望まれる、主の日だったのです。
しかし、アモスはこの考えを真逆にしています。
『あなた方が考えている主の日、裁かれるのは、敵ではない。あなたがた自身だ。』
『人間的にどのような努力をしても、全く無意味だ。』
最高地点を、最低まで落とすことで、強烈な一発を、イスラエルにぶちかましているわけです。
この宣言は21節へとつながっていきます。
イスラエルの宗教的な儀式、捧げもの、賛美は、主に受け取られないものとなりました。
いかに、それがアベルがささげた最高の捧げものであっても、ダビデがささげた天に届く賛美であってもダメです。
人間から、神へ向かう宗教は、全て、主が偽物であると評価を下すのです。
わが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、何の益もないのです。
愛がないとは、主がいらっしゃらないという意味です。
主が、私と共にいらっしゃらなければ、何をやっても虚しいのです。
しかし、私たちが、何より気が付くべきは、次の真理です。
主が私の元に来られない日が、無いということです。
クリスマスは、繰り返し繰り返し、私に起きています。
とすれば、もし主がいらっしゃらないのなら、「私がいないようにしている」ということです。
主を追い出すなんて、私たちは何ということを、やらかしているのでしょうか。
アモスは預言します。
24節「正義を洪水のように恵みの業を大河のように尽きることなく流れさせよ。」
尽きることなく、正義と恵みが流れている源は、どこにあるのでしょう?
もちろん、三位一体の神ご自身です。
そして、その正義と恵みは、聖霊様によって、私たちに向かって流れています。
私たちが、この正義と恵みを尽きることなく流れさせるには、私はオープンにならなければならないのです。
主から頂いた命を、神以外のために用いてしまったら、神の正義・恵みは、死んだものとなります。
主は、荒れ野に道を作り、砂漠に河を流れさせる方です。
しかし、その道を行き止まりにし、その河をせき止めてしまうのは、ほかでもない私なのです。
主は、アモスを遣わしました。
つまり、イスラエルを待っておられたのです。
もう一度悔い改めて、主を求め、主の正義と恵みを流れさせることを期待しておられました。
ですから、主は、私をも待っておられるでしょう。
主は、いつでも主の御業を起こす準備ができております。
いつでも、私の人生に道を引き、大河を流れさせる準備が万端です。
ただ、私が扉を開くなら、それは尽きることない流れとなって、流れ出すことを期待しましょう。
まさにエゼキエルが描いた、命の水、命の河のビジョンが、私の現場で成し遂げられることを信じます。
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東京リビングストーン教会は、早天祈り会を行っている教会です。
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