おはようございます。
今日は、詩篇66:1-7でした。
今日の詩篇は、すべての人を礼拝、賛美へと誘う詩篇です。
ひとつ前の詩篇65篇が、「沈黙して主に向かう」でした。
その黙想の詩篇からは、真逆となっています。
賛美や祈りは、静かにする方法も、逆に、声をあげ、高らかにする方法もあるということです。
1節がすべてをまとめています。
「全地よ、神に向かって喜びの叫びをあげよ。」
英語の聖書では、「Shout for joy to God」と訳されています。
シャウトと言われると、ハードロックのライブで、シャウトしている人を私は思い出します。
それくらいに、大声で、ワー、キャーという感じで叫ぶということです。
この「叫ぶ」と訳されるヘブライ語を見てみると、戦争の時に笛を鳴らすとか、勝利の雄たけびをあげるとかいう時に用いられる単語です。
つまり、他人に分かるように、聞こえるように、目立つように、うるさく叫ぶ。
このようなシャウトが、ここの喜びの叫びの意味なのです。
詩篇66篇は、何を喜び叫ぶというのでしょうか?
それは、主の御業でした。
6~7節においては、出エジプトした時に紅海を渡らせた主の奇跡を賛美しています。
つまり、この詩篇は、主が、イスラエルの民のために行った御業について、目立つように、聞こえるように、全地に向かって叫び賛美せよという宣言だということです。
私たちは、この詩篇に宣教の本質を見ることができます。
宣教とは、私たちの体験した主の御業を、わかるように、目立つように叫ぶことだということです。
まさに、外に向かって、「話す」ということこそ、主なる神様の本質です。
創世記では、神が話したら、世界が造り上げられたのではないでしょうか?
神の啓示は、いつも、神の「言葉」として預言者たちに伝えられました。
そして、「言」であるイエス様が、この世に来られ、神ご自身が私たちに知らされたのです。
主の御業を叫ぶ。
決して、説明することではありません。
説得することでもありません。
私の体験を、そのまま、口から出すだけです。
神ご自身、口を閉じたままにすることがお出来にならなかったのです。
とすれば、神の子である私たちが、口を閉じることが可能なわけがありません。
叫ばざるを得ない、主が私に起こしてくださった御業を、口に出さざるを得ないのだと信じます。
私の今日歩む人生が、この世において、目立って聞こえる、叫びとなることを期待します。
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東京リビングストーン教会は、早天祈り会を行っている教会です。
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