おはようございます。
今日は、詩篇69:14-29でした。
昨日の計り知れない苦痛の中から、今日の逆転の祈りが始まります。
14節、新共同訳にはありませんが、「しかし」という接続詞がくっついています。
いつかは分からないけれど、主の御旨にかなう時に、救いが与えられることを作者は確信しています。
特に求めている答えを、17節にこのように表現しています。
17節「恵みと慈しみの主よ、わたしに答えてください。憐れみ深い主よ、御顔をわたしに向けてください。」
御顔を向けて下さい、とは、ユダヤ人にとって特別な言葉でした。
アロンの祝福として知られている祈り、民数記6:24-26です。
「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らしあなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けてあなたに平安を賜るように。」
これは、シナゴーグの礼拝の後でも唱えられた祈りですし、教会の祝祷として用いられている祈りでもあります。
詩篇69篇の作者が求めているのは、主が御顔を向けてくださることです。
顔という場所は、その人の人格のすべてが出てくるところです。
顔を向けるということは、その全人格をもって、向き合うということです。
ですから、主が私たちに御顔を向けてくださるなら、主のすべてが私に向かっていることを意味しています。
私のすべてをご覧になり、私に向かってやってきてくださることです。
考えて見ると、天地創造する前から、永遠の天国に至るまで、主は私たちから顔をそらすことはなさいません。
神が愛するということは、私に顔を向けている、と言って過言でないからです。
ということは、主から顔を背けているのは、誰かと言えば、他でもない私だということです。
アダムは、罪を犯したとき、神の御前から逃げ、神の顔を見ることは出来ませんでした。
カインも、自分の捧げものが受け取られなかったとき、顔を伏せました。
罪人である私たちは、主なる神様の顔から、背いて、背を向けようとするわけです。
しかし、この詩篇69篇の祈りのとおり、私たちに近づき、私たちを贖って敵から解放された方がやってきてくださいました。
(もちろん、この祈りはイエス様の祈りでもあるのです)
神から顔をそむけてしまった、にもかかわらず、イエス様は私の場所にきて、私を顔を求めてくださったのです。
私たちは、イエスキリストの顔を通して、神の顔を見上げることが可能となりました。
実際に、父なる神様の顔を見上げるのは、天国に入ってからになります。
それまで、私たちは、イエス様に隠された、神の栄光の顔の輝きを見上げるのです。
モーセの幕屋の一番外側はジュゴンの皮でした。
それは、汚く、みすぼらしい、動物の皮に過ぎなかったのです。
しかし、その中心部は、すべてが金で出来ていました。
外からはみすぼらしく見えるが、中は栄光の光が輝いているのが、イエス様だったのです。
私たちは、イエス様と同じ神の子供として、私はみすぼらしく汚らしく見えるかもしれませんが、私の中に、主の栄光の光を輝かせているのです。
今日も、私たちは、イエス様と顔を合わせ、中にある神の栄光を見ながら歩みましょう。
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東京リビングストーン教会は、早天祈り会を行っている教会です。
毎日午前6:00~7:00までお祈りの時を持っています。