おはようございます。
今日は、1コリント3:1-15でした、
使徒パウロは1章からずっと、派閥争いをするコリント教会の兄弟姉妹たちの目を覚ますために手紙を書いています。
彼らの目を、教会の頭であるイエスキリストへとむける為でした。
その中心は、7節にあります。
7節「ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。」
私たち人間は、神に様々な役割をもって用いられます。
しかし、私たちを救い出すのも、私たちを用いるのも、すべては主なる神様の働きです。
クリスチャンが生きることはキリストだからです。
それゆえ、派閥争いをすることは、全くのナンセンスだと使徒パウロは、言いたいわけでした。
すべては神から出て、すべては神へと戻っていきます。
そこに人間が、言葉をはさむ余地はないからです。
同じ事情は、10節以下にも適用されていきます。
特に、15節に注目しましょう。
私たちが注意しなければならないのは、次のようなことです。
金や銀で家を建てたものが報いを受け、木や草で家を建てたものは何も残らない。
だから、私たちは金や銀で家を建てるべきだ!というような話に注意が必要です。
そもそも人に、何が金で、何が銀なのか、見分けがつくのでしょうか?
礼拝、祈り、聖書、宣教のような働きが、主にとっては「木」や「わら」のように価値のないものとなることだってあります。
旧約聖書では、お前たちの祈りを私は聞かない、捧げものを受け取らないと書いてあるのではないでしょうか?
イエス様が叱ったファリサイ派は、誰よりも熱心に祈り、礼拝し、献金し、聖書を教えていました。
使徒パウロは、私たちの仕事が明るみにでるのは、かの日であると言っています。
かの日までは、私たちの仕事が「金」だったのか、「わら」だったのか、判別できません。
つまり、私たちの地上での働きを、地上において評価することは、派閥争いのように無意味なのです。
使徒パウロの真意は、私たちの仕事が「金」であろうが、「わら」であろうが、その火から私たちをくぐり抜けさせて救い出してくださるのは神だということです。
私たちの働きではなく、主なる神様の働きこそが重要だということです。
成長させて下さるのは神なのですと書きました。
それならば、その土台の上に、金の家を建てさせて下さるのも神なのです。
私たちは、ただ、ひたすらにイエス様と向き合うことができるのか?
私たちは、ただ、ひたすらにイエス様に従うことができるのか?
使徒パウロは、この強烈な問いかけを、もう一度私たちに思い出させてくれています。
今日も、主が私たちを成長させてくださいます。
今日も、主が私たちに立派な家を建てるように導いてくださいます。
かの日に今日の一日を見て、主が働いてくださった一日だと賛美できることを期待して歩むことを願います。
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東京リビングストーン教会は、早天祈り会を行っている教会です。
毎日午前6:00~7:00までお祈りの時を持っています。