2月8日早天メッセージ

投稿者: | 2018年2月8日

おはようございます。
今日は、1コリント15:20-34でした。

死者の復活を理解しないコリントの教会へ使徒パウロは、この章を書いていました。

20節から始まる論証は、イエスキリストは、私たちの復活の初穂である。
つまり、イエス様が復活されたのは、私たちが復活するためであると、はっきりと示しました。
そして、23節からのように、最後の時までには、まだ順番があると言っています。

いったい、使徒パウロがここで、何を言いたかったのでしょうか?

彼は、救いは既に終わったが、未だに終わっていない、という原則を知らせたかったのです。

どうも、コリント教会の人たちは、既に自分たちの救いが終わったと考えていたようです。

いや、それは正しい告白なのです。
しかし、真理の半分しかありません。

イエス様が復活したことで、新しい命は、すでに信じる者に与えられています。
神の国は、イエス様ご自身が来られたことを通して、既にきました。

ただ、神の国の統治は現在進行中であり、まだ完全ではないのです。

 

「既に」と「未だ」の時間をバランスよく信じなければ、私たちは信仰生活を踏み誤ります。

もし、コリント教会みたいに、「既に」だけを信じたならば、罪と戦う緊張感は消え、神との関係の陶酔感(ハレルヤ感とでも言いましょうか?)だけが残されます。
32節で指摘するように、「救われたのだから、あとは飲み食いしよう」という生活となってしまいます。

逆に、「未だ」だけを信じたならば、私たちは今、生きるべき理由を失います。
ただ未来にやってくる救いだけを信じたら、今日の喜び、今日の恵みはないのです。

私たちが得るべき救いは、「既に救われた、しかし、未だ救われていない」という理解不能で矛盾したものであることを認識すべきです。

イエス様の勝利は確実なものであり、それが今日の生きる喜びであり勝利です。
が、しかし、その統治は現在進行中なので、罪と死との戦いは常に緊張状態にあるのです。

私たちは、いかにバランスを崩して生きる存在でしょうか?
どっちかに傾いて生きるのが、楽ですし、簡単です。

既に救われたことをいいことに、何もしない何も考えない生き方が簡単です。
逆に、未来の天国に向かって報いを得ようと、ただ苦行を重ねるのも簡単です。

しかし、それらは半分の福音しか生きていません。
罪との緊張感を保ちながら、一方で喜びと感謝にあふれるなどという人生は、イエス様に頼る以外希望がないのです。

 

34節「正気になって身を正しなさい。罪を犯してはならない。神について何も知らない人がいるからです。わたしがこう言うのは、あなたがたを恥じ入らせるためです。」

神について何も知らない人がいる、と訳されています。
「知らない」のギリシア語は、知識がない、認識しないという意味があります。

ここにカールバルトの私訳を紹介します。
彼はここを「神について何も予感しない人がいる。」と訳しました。

神への感覚がない、神への期待がない、そのような意味がはっきりします。

「既に」と「未だ」のバランスをくずした人に共通するのは、神への予感がないということです。

神のご計画と、私の人生が関係ないものとして、今日歩もうとするなら、私たちは、既にバランスを失っているのです。

私たちは、今日も、現在進行中の神の計画のど真ん中で生きています。

私のために死んで復活し、新しい命を与えてくだる予感、
神が生きていらっしゃって今日も働いてくださる予感、

この予感は、曖昧で不確実なものではありません。
主なる神様が約束された確実な信仰による予感です。

だから、私たちは今日の一日が、神への予感を心に抱いて、生きることを期待しましょう。
戦いの緊張感の中に、喜び感謝があふれることを信じます。

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東京リビングストーン教会は、早天祈り会を行っている教会です。
毎日午前6:00~7:00までお祈りの時を持っています。