おはようございます。
今日は、詩編80:1-7でした。
(新共同訳では、1-8です。)
詩編80篇も、続けてアサフの詩です。
苦しみの中から叫ぶ賛美です。
この賛美の中で実に繰り返されているフレーズがあります。
4,8,20節です。
ここに出てくる「ヴェ」というヘブライ語に注目したいと思います。
ヴェは接続詞、「and」を表しています。
このandは新共同訳や韓国語の聖書では訳していません。
ただ、新改訳聖書のみが、「そうすれば」という訳をつけています。
アサフがなぜここに接続詞をいれたのでしょう?
ここから私たちは、アサフの信仰告白を見ることができるのです。
さて、andを訳していない新共同訳は、
4節「神よ、わたしたちを連れ帰り御顔の光を輝かせわたしたちをお救いください。」
新改訳では、
3節「神よ。私たちをもとに返し、御顔を照り輝かせて下さい。そうすれば私たちは救われます。」
どっちの訳が良いという話は、できないのですが、しいて言えば、どちらも訳としては、問題があります。
新共同訳のようにandを無視するのであれば、アサフの 真意が見えてきません。
一方、新改訳のように「そうすれば」と訳してしまうと、条件文のような雰囲気が出て、アサフの言いたかったことが曲がって伝わる危険があります。
私たちは、このandの意味をよく考える必要があります。
andという接続詞は、アサフの信仰によれば、「=」だったと考えられます。
A and Bとは、A = Bなのです。
つまり、翻訳を直すと、こうです。
「神よ。御顔の光を輝かせ下さい。そのことこそが、私たちが救われることです。」
これは、私の救いが御顔の光の輝きだという、アサフの強烈な信仰告白なのです。
「御顔の光を輝かせる」とは、旧約で43回、詩篇で16回、使われています。
名詞形も入れれば164回も使われる特別な単語です。
この御顔の光とは何でしょうか?
新約聖書でこの光を体験した人が使徒パウロでした。
彼は天からの光によって、目が見えなくなり、地に倒れこんだのでした。
そして、主の声を聴き、主に出会います。
まさに、御顔の光とは、主の臨在、私たちが主に出会うこと、そのものを表しています。
そして、なぜ「光」なのでしょう?
光というものは、方向を持っています。
どこどこから、どこどこへ向かうのが光です。
つまり、光は矢印なのです。
ですから、御顔の光は、神ご自身から出て、私たちに到達している、神との出会いという愛の矢印だということです。
アサフは、この神から出て、私に向かっている神ご自身の啓示、愛こそが、私の救いそのものであると、感動をもって告白し賛美しています。
私たちは、日常に忙しくて、祈るのを忘れます。
時に、祈ることに忙しすぎて、祈っているのが誰であるのか忘れます。
祈りが祈りで無くなる、まさに罪人なのです。
ですから、祈る前に、主がどのような方であるのかを、もう一度思い出し、賛美する必要があります。
私たちの神は、御顔の光を、今日も、私に照り輝かせてくださる主です。
私に命を与え、悟りを与え、知恵を与えてくださる主、
その主に向かって祈り賛美し、一日を生きる私と皆さんとになることを期待します。
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東京リビングストーン教会は、早天祈り会を行っている教会です。
毎日午前6:00~7:00までお祈りの時を持っています。