おはようございます。
今日は、2コリント3:12-18でした。
使徒パウロは、クリスチャンの希望について続けて書いています。
12節からは、モーセの顔が主との交わりによって輝いた時の話を引用しました。
使徒パウロは、旧約聖書の熱心な研究者であり先生でありました。
ですから、手紙の中で、旧約聖書をイエスキリストによって再解釈する場面がたくさん出ます。
使徒パウロほど、旧約聖書にイエスキリストの光を照らして解釈した神学者は、歴史上いなかったかもしれません。
私たちは、まさに、このパウロの態度の中に旧約聖書の読み方が隠されているわけです。
イエスキリストによって、聖霊様により頼んで、旧約聖書を読む必要があるということです。
もちろん、これは旧約聖書の権威を落とすものではありません。
イエスキリストという最高の啓示を通すと、旧約聖書は本来の神の栄光の光が輝くという意味です。
ですから、私たちは、15節の警告に耳を傾けなければなりません。
「このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。」
もし、私たちも旧約聖書を人の知恵によって読もうとするなら(新約聖書も同じですが)、私たちの心には覆いがかかってしまうでしょう。
主なる神様の御心を知ることができません。
時に、御心を捻じ曲げてしまうことに気が付かなければなりません。
聖書が神の言葉として、私たちに届くには、どうすればよいのでしょうか。
16節「主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。」
そして、17節に「主の霊のおられるところに自由があります。」と書いてあります。
ここで、間違っても、私たちは、主から自由になってはなりません。
それは、自分にとっては自由かもしれませんが、罪の奴隷なのです。
聖霊様が働かれるところは、聖霊様によって支配されているはずです。
主に縛られて、はじめて、私たちは罪から自由なのです。
私たちが待ち望む天国は、まさに、この姿です。
天国では、主なる神様が完全に支配されています。
私たちは神にガッチリと結ばれて、離れることが出来ないのが天国です。
18節に書いてあるように、その天国の栄光が、今日を生きる私にやってくるのです。
主の似姿となっていく、と表現されたのは、天国でイエス様と同じ姿になるその栄光が、今日の私に写るという意味です。
もちろん、私の輝きではなく、イエス様の輝きです。
聖霊様の恵みで顔の覆いが取り除かれ、天国での栄光の光が、今日の私の歩みの中にあることを期待して祈ります。
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東京リビングストーン教会は、早天祈り会を行っている教会です。
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