おはようございます。
今日は、2コリント4:13-18でした。
続けて、使徒パウロは迫害を受けながらも福音を宣教する者たちへの慰めを語っていきます。
13節は詩編116:10の70人訳からの引用です。
ヘブライ語の旧約聖書においては、この節は2通りの訳があります。
新共同訳では「わたしは信じる「激しい苦しみに襲われている」と言うときも」で、
新改訳では「私は信じた。それ故に語った。そして私ははなはだしく卑しめられた」です。
翻訳の不思議と限界がここに見えますが、とにかく70人訳は、新改訳聖書に近い訳で書かれているのでしょう。
私たちが語るのは、信じているからであると使徒パウロは強調しています。
つまり、私たちの信仰は、語る信仰だということです。
もし、私たちが語らないのであれば、それは信仰とは呼べないということになります。
なぜならば、信仰とは主なる神様が私たちに与えて下さった啓示であるからです。
啓示がどのように私に与えられたのでしょうか?
信仰は、私たちに語られたのです。
神は愛です。
そして、同時に、イエス様は、言(ことば)でした。
愛も、言(ことば)も外へと出てこなければ、何の意味も持ちません。
神ご自身が、外へと語らなければ、神は、もはや神ではないのです。
新旧約聖書のすべての個所で、語ることを非常に大切にしているのは、神ご自身がそうであるからです。
とすれば、神ご自身の啓示である信仰が、外へと語られなければ、それは神の信仰とは呼べません。
私たちは信じてると言って、語らなければ、それは信じていないのです。
もちろん、神の言葉は、聖書だけに限定されるのではありません。
私がもし、本当に死んでいる罪人とは真逆の生き方、つまり、生きている神の子として生きるのならどうでしょう。
私たちの生きること、それ自体が神の言葉になりえます。
私たちの何気ない、言葉にも神の言葉として聖霊様が語ってくださいます。
どのようなときも、気を緩ませることなく、神の言葉が私の人生に、私の言葉に、私のすべてに臨むことを待ち望み、それを祈らなければなりません。
ですから、私たちは、大胆に、「私は信じている。それゆえに語っている。」と告白する、今日一日を歩みましょう。
そして、激しい迫害の中で、使徒パウロは聖霊様に希望を置きます。
16節「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。」
私たちが罪人は真逆の生き方をするならば、必ず迫害があります。
私たちの神への信仰を世は憎んでいるからです。
神の子としての生き方は、プレッシャーと緊張感があります。
とのくらいかと言うと、まさに、イエス様の最後の晩餐やゲッセマネの祈りにおける緊張感が私たちにやってきます。
しかし、いかなるプレッシャーも、私の外の人しか弱めることができないことを忘れてはなりません。
その時、私たちがもつ信仰の希望は、こうです。
外の人が衰えるならば、ますます、内の人は新しくなり栄光に輝くことです。
ゲッセマネの時、イエス様は最も弱く見えました。
十字架で死ぬとき、神とは思えない、罪による死という弱さを見せました。
その時、イエス様の外の人は死んだかもしれませんが、しかし、内の人は豊かに生きていたのです。
神の愛を表している限り、イエス様が死ぬことはあり得ないからです。
その証拠として、3日目の復活がありました。
復活があったからイエス様が生きているのではなく、イエス様が生きていらっしゃったので、復活されたのです。
14節に驚くべきことが書いてあります。
主なる神様は、イエス様だけではなく、私たちをも蘇らせてくださいます。
それは、つまり、私たちの内なる人が生きている証拠として、私たちが蘇るのです。
「私は信じた。それゆえに語った。」
今日、この信仰を告白するならば、「私ははなはだしく卑しめらた」をも体験するでしょう。
しかし、その緊張とプレッシャーは、私たちにとって、大いなる希望です。
外なる人が衰えるとき、同時に、内なる人は新しくされるからです。
それは、復活へとつながっていることの証しだからです。
今日私たちが、神の子としての緊張感の中で、内なる人が新しくされ、復活を証しする一日となることを信じます。
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