おはようございます。
今日は、2コリント6:14-7:1でした。
使徒パウロは、今日の個所で、私たちが神の神殿であるのだから、聖なるものとなるようにと勧めています。
この中で、様々な旧約聖書のみことばを引用しました。
(16~18節での引用個所は、レビ26:11-12、エゼキエル32:27、イザヤ52:11、20:34、2サムエル7:14、イザヤ43:6)
14節「あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。」
この節は、もちろん、信仰のない人々と付き合うな、ということではありません。
もし、私たちがクリスチャンでない人、もっと言うと、異端の人だとしても、人間関係を持たなかったらどうでしょう?
怖いことですが、その時、私たちは、パウロの言う、不釣り合いなくびきに繋がれてしまうことになります。
クリスチャン以外の人と付き合わないという態度は、この世に来られ十字架で死なれたイエス様を否定することだからです。
そして、イエス様を否定するという態度は、まさに、信じていない人たちが負っているくびきだからです。
もし、聖さのためにクリスチャン以外とは付き合いを持たないなら、皮肉なことに、信仰のない人たちと一緒に、イエス様を否定するのです。
イエス様は、神を信じていない人、立場の弱い人、罪人たちと関係を持っていたことを忘れてはなりません。
私たちは、目に見える形で関係を持てなかったとしても、祈りという無形の関係を持つことは、いくらでもできます。
愛の目で見るならば、あちらこちら、祈りの必要だらけです。
町ですれ違う人、共に電車に乗る人、コンビニの店員、もちろん職場の同僚などなど…人も場所も祈りが必要です。
私たちの日常から、信じていない者たちとの交わり、彼らのための祈りが消える時、サタンは大喜びするでしょう。
ですから、信仰のない人々と付き合い、彼らのために祈らなければなりません。
そして、私たちは、イエスキリストこそが、聖さであることを告白します。
とすれば、7:1「肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め」と書いてあるのは、2つの意味を持ちます。
私たちの中にある霊肉の汚れをなくするようにするという消極的な意味がもちろんあります。
それだけではなく、イエスキリストの聖さを表すという積極的な意味もあるのです。
もし、私たちの中に、イエスキリストを表さない行動、言動、感情、考え…等が、ほんのちょっとでもあったら、もう、それは聖いとは言えません。
使徒パウロは、2つの清め、消極的・積極的な清めを実践せよと言っているのです。
汚れをゼロにする消極的要件ならば、人間の力でもなんとかできます。
いわゆる、良い人。誠実な人。俗っぽくない人は、どこにでもいます。
なにより、世の中で宗教と呼ばれるものは、それに一生懸命です。
しかし、聖さであるイエスキリストを表すということは、どうでしょう?
こらは、人間にはできません。
私たちは、神を畏れ、神に近づかなければいけないのです。
私を満たしてくださる聖霊様に頼み、委ねなければなりません。
今日という日、いつも貧しい心で、イエス様を慕い求め、祈る私たちとなりましょう。
罪の汚れがゼロとなるだけではなく、1歩踏み出して、大胆に、イエス様の聖さを表す恵みが与えられることを期待します。
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東京リビングストーン教会は、早天祈り会を行っている教会です。
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