3月21日早天メッセージ

投稿者: | 2018年3月21日

おはようございます。
今日は、2コリント11:1-15でした。

コリント教会では偽使徒が現れて、うその福音を語っていました。
しかも、あろうことかコリント教会の兄弟姉妹たちは、その嘘の教えを受け入れてしまっていたのです。

使徒パウロは、皮肉を交えながら、その偽使徒たちの批判を、反論していく個所が今日の部分です。

1節で、使徒パウロは、自分がこれから話す、自慢話と反論を我慢してくれればよいと言っています。
これは、4節、コリント教会が偽使徒たちの話を我慢して聞いて受け入れていたことへの最大限の皮肉です。

偽使徒たちの話を受け入れるくらいなら、私の話なんて、受け入れて当たり前でしょ、という攻撃的なチャレンジがあります。
ギリシアの人達の知性に訴えかけるチャレンジでした。

5節の大使徒と呼ばれているのは、エルサレムの使徒たちではなく、コリント教会に来ていた偽使徒たちを、まさに皮肉っているのです。

5-6節で、使徒パウロの話し下手に関する批判に反論しています。

ギリシアには雄弁家がたくさんいましたから、使徒パウロより演説が上手い人がたくさんいたのでしょう。

さらに、7-15節で、無報酬で働いていることに対する批判に反論しています。

ギリシアの教師は報酬をもらって教えるのが常識でした。
ですから、報酬をもらわないということは、無能力であることの証拠でした。
そんなパウロは、教師失格だと訴えられたのです。

しかも、ギリシアでは職人のような肉体労働する者は軽んじられました。

何より、使徒パウロはテントを作りながら生活費を稼いでいたもんです。
ゆえに、ギリシアでは使徒パウロの働きは軽薄されたのです。

 
さらにさらに、パウロが無報酬であるのは、コリント教会への愛がないから、お金を受け取らないのだという批判までありました。
もう、言いがかりのような、批判です。

11節に結論的に、「神がご存じです。」と、そのような批判を一蹴しています。

なぜ、使徒パウロは、ギリシアの文化にいたにもかからわず、自分の無報酬を貫き通したのでしょうか?

使徒パウロは自分のスタイルを貫き通すためにそうしたわけではありません。
彼の宣教の方法は、非常に柔軟で、町によってそれを変えていったことを使徒言行録は記録してあります。

ずばり、無報酬を貫き通すことが、偽使徒たちとの違いを見せることだったからです。

偽使徒たちは、自分たちの利益のために働いていたために、目的は金でした。

ですから、無報酬で働くパウロと自分たちの違いが明らかにされることを恐れたのです。

この恐れが、使徒パウロを批判し攻撃させました。

しかし、そのこと自体が、まさに自分たちが偽物であることをはっきりと知らせる証拠となったのです。

主のために働くとは、時に批判と攻撃にさらされることがあります。

使徒パウロの牧会的な判断が、攻撃材料となったように、良かれと思ったことがあらぬ批判を受けたりもするでしょう。

しかし、問題は、その時にどのような態度をとるか?ということです。

パウロ自身、15節なように、大したことでは無いと、偽使徒たちを大きな問題だとは考えていません。

私たちが考えるべきは、批判者をどうしよう?ということではないのです。

なぜ、攻撃者は攻撃をするのでしょうか?

まさに、本物を恐れているからです。

攻撃しないと、偽物である自分たちの立場が危ういがゆえに、批判と攻撃を繰り返すのです。

しかし、私たちが大胆に働いている限り、その批判と攻撃は、自分たちが偽物だということの証拠にしかならないということとなります。

ですから、いつもここらに収めなければならないことは、次のことです。

私たちは、誰のために働いているのでしょうか?

もちろん、私たちが誰のために、何をしているのか?は、主がご存じであります。

私たちが祈るのは、日々、砂の上ではなく、イエス様の岩の上に家を建てる仕事をすることができるように、ということだけです。

それが批判者に対する最大限の圧力なのです。

イエス様以外に堅固な岩は存在しません。
つねに、謙遜な悔い改めと、大胆な信仰の一歩を踏み出だすものとなることを決心しましょう。

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東京リビングストーン教会は、早天祈り会を行っている教会です。
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