おはようございます。
今日は、マタイ26:36-46です。
イエス様のゲッセマネの祈りです。
時刻は、木曜の夜中です。
この祈りが、イエス様の最高潮であることに疑いはありません。
まず、なぜ、ゲッセマネであったのか?というところから考えましょう。
オリーブ山に何があったかと言えば、その名の通りオリーブの木です。
ゲッセマネという名前は、油を搾りとる機械である「ガト」と、オリーブ油の「シェマ―ニーム」の合成語です。
つまり、ゲッセマネは、オリーブを収穫してそこから油をとる場所でした。
オリーブを絞る作業は、通常11月に行われていたようです。
4段階に分けて搾り取られます。
最初出てきたオリーブ油は、祭司が使う油です。
2番目に出てきたものは、食用として使います。
3番目は、化粧品や火をともす油として。
そして、最後に取られる油で石鹸を作ったそうです。
最後出る残りかすは、ゴミではなくそのまま燃料として再利用されました。
ゲッセマネで、3度イエス様は祈られますが、最後に血が滴るように出てきます。
それは、まさに、オリーブをカスになるまで絞って出てくるオリーブ油を連想させたのです。
このことが、祈りとはどのようなものか?を表しています。
最後まで搾り出すような祈りこそが、私たちの祈りとならなければなりません。
さて、ゲッセマネで祈るイエス様に、焦点を当てましょう。
イエス様は、ためらいの祈りをされています。
39節「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」
この祈りは、私たちに衝撃を与えます。
というのは、神ご自身でありながらも、イエス様にとって、十字架の苦しみを受けることは当然のことではなかったからです。
十字架で苦しんで、死ぬことを通して、罪人の贖いを成し遂げるという行為を、イエス様は自分で選ばなければならなかったのです。
しかも、非常に困難な選択でした。
神の計画は、イエス様が死ぬことを通して、神の意思である贖いを成し遂げる。
しかし、死とは、サタンがアダムを騙して、陥れた状態でした。
サタンが喜ぶ「死」が、いま、父なる神様の喜ぶ「死」となろうとしていたのです。
なんという矛盾でしょうか?
なんという謎でしょうか?
この謎を目の前に、イエス様はためらい、悩まれたのです。
私たちは、ここに、父なる神様の永遠なる御心に対して、人間が歴史の中でどのように対応するべきなのか?ということのモデルを見ることができます。
イエス様は、ご自分のためらいを搾り取るように主の前に注ぎだしました。
このとき、イエス様には、誰一人共に祈る同労者はいませんでした。
しかも、驚くべきことは何でしょうか?
ゲッセマネの祈りに対する神の明確な応えが無かったことです。
ただ、沈黙のみが、ゲッセマネの祈りに対する応えでした。
このような状況の中で、イエス様は、父のご計画を、畏れ敬いつつ、自分のものとして選択をしたのです。
「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」
この瞬間、永遠なる神の見えない計画は、歴史の中に、目に見える形で確定しました。
「信仰」という言葉をイエス様ご自身に使うことが、正しいかどうかわかりません。
(私は「イエス様の信仰」を考えていいと思いますが、一般的には受け入れられないでしょう)
このイエス様の父なる神様に対する、ある意味での信仰が、この選択へイエス様を導きました。
私たちの父なる神様の御心に対する対応は、どうでしょうか?
私たちにとって、神の御心は矛盾であり、謎でしかありません。
しかも、どんなに一生懸命、神に語りかけ、たとえ血がにじむように祈っても、神は沈黙を通されることだってあります。
にもかからわず、主が主であるゆえに、その謎である神の計画を受け入れ、私の人生とする選択をすべきなのです。
それこそが、イエス様のゲッセマネの祈りのメッセージだからです。
そして、そのためのヒントはイエス様ご自身が与えて下さっています。
41節「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。」
「目を覚まして」、このギリシア語は、「起き上がる」という単語から出来ています。
そして、「起き上がる」というギリシア語がどこに使われるかと言えば、イエス様が復活するときの「Rise」こそが、「起き上がる」なのです。
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東京リビングストーン教会は、早天祈り会を行っている教会です。
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