おはようございます。
今日は、イザヤ40:1-8です!
イザヤ書は40章から、慰めの預言が始まります。
今日見ている慰めの時が、いつなのかは、非常に興味深いポイントです。
どの慰めをイザヤは見たのでしょう?
イスラエルが、捕囚から戻るその時なのか、イエス様が贖いを成し遂げられたその時なのか、それとも、エルサレムが再建される時なのか、はたまた再臨の時なのでしょうか?
イエス様の復活を信じる者として、知っているのは次のことです。
究極的な慰めは、まさに天国に入る時、全ての涙がぬぐわれる、その時だということです。
私達は、天国のビジョンを持ちながら、今日の箇所を見ることが出来ます。
3-4節の谷が埋め立てられ、山が低くなるという情景は、まさに新天新地があらわれる最後の日です。
そして、7-8節の主の風が吹きつけて、草は枯れ、花はしぼんで、神の言葉が永遠に立つビジョンは、最後の日、全ては滅ぼされ、神の栄光のみが固く立つことでしょう。
一方、今日を生きる私達は、最後の日に与えられるだろう、究極的な慰めをしたい求るだけでしょうか?
人参を前にぶら下げて走る馬のように、栄光に満たされたその日まで、今日は歯を食いしばって、汗を流し、血を流し歩まなければならないのでしょうか?
いいえ、そうではありません。
イエス様は、天国はあなた方の中にあるとおっしゃいました。
では、今、私の中にある天国と、未来くる究極的な天国と、何か違いがあるでしょうか?
違いは、ありません。
もちろん、私の中には肉の思いがあり、罪に傾く私もいます。
しかし、本物の天国が、聖霊様によって広げられています。
今日、信仰によって未だ見ないその慰めが、すでに私のものとなっていることを体験することが出来るはずです。
私が今日、受けるべき慰めは、天国で受けるべき慰めだと信じます。
もっと、突っ込んで考えてみましょう。
天国において、今日2018年4月2日を生きる私を見ている、天国での私の思いは、どのようなものでしょうか?
想像したことがあるでしょうか?
あ、そうそう、あの日は、こういう失敗して、こういう罪を犯したんだよなー…。
なんて、思いをするでしょうか?
いいえ、天国には後悔さえないのですから、そんな考えは出来ません。
天国から見る、今日の私は、主の栄光で輝いているはずです。
クリスチャンか天国に向かう全ての歩みの中には、聖霊様の働きが豊かにあるからです。
あれも、これも、万事を益として下さる主の働きだらけなはずです。
信仰によって、天国から今日の私をみるように、私の中にある天国から、今日の私の輝きを信じます。
私達の希望、私たちの慰めは、天国にあります。
信仰とは、未来くる天国にある究極的な慰めと同じものが、今日いきる地上にいる私の慰めであることを信じることでもあります。
イザヤは、まさに主なる神様から、天国の慰めを見せらました。
そして、それを今生きる自分の世界へ語ったのです。
私たちも同じでは無いでしょうか?
今日、私の人生に、どう主が働かれるかはわかりません。
しかし、確信できるのは、私の歩みは、確実に主の栄光に輝いていることです。
未だ見ていない天国に入った私から見るだろう、今日の私の姿を、すでに見たものとして信じて、私の人生として体験する。
今日の私の歩みは、とこしえに揺らぐことがない主の言葉に溢れ、神の栄光が輝いていることを信じて、今日一日生きると期待します。
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東京リビングストーン教会は、早天祈り会を行っている教会です。
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