おはようございます。
今日は、イザヤ45:1-13でした。
昨日の個所に引き続き、ペルシャ王キュロスに関してイザヤは預言していきます。
昨日の44:28「わたしの牧者」と呼び、今日の1節では「油そそがれた人」と呼んでいます。
イエス様に用いられるべき称号が、異邦人キュロスに用いられているのです。
一時的にせよ、主を信じないものを、主の道具として用いるという預言は、すごく特別なことでした。
その理由について、イザヤは前半部に2つ語っています。
1つは、3節後半「あなたは知るようになるわたしは主、あなたの名を呼ぶ者イスラエルの神である、と。」
つまり、キュロス自身が主を知るようになるためでした。
そして、もう一つは、6節「日の昇るところから日の沈むところまで人々は知るようになるわたしのほかは、むなしいものだ、と。わたしが主、ほかにはいない。」
つまり、すべての人たちが主を知るようになるためだというのです。
知るべき内容は同じです。
「私は主、ほかにはいない」
主の御名が広められるために、キュロスを用いるのです。
いかに人間が頭もひねってアイデアを出したとしても、敵である異邦人を用いようとはしないでしょう。
現在の日本創造科学学会の会長の証しを読んだことがあります。
その人は、エホバの証人の伝道を受けて、創造科学に興味を持ち始めたそうです。
それで、エホバの証人になるのではなく、主なる神様に出会ってクリスチャンとなり、創造科学学会の会長までやっているということでした。
私たちが駅前でエホバの証人の伝道を見て、ちょっと気持ち悪く思う時があります。
しかし、主はあの偽物の伝道さえ用いて、本物のクリスチャンを呼ぶことだって、お出来になるのです。
全ては、主の栄光のために、あらゆる方法で、主は働かれます。
私たちは、ただただ、その現場にいて、ハレルヤ、アーメンと答えるしかありません。
イザヤは、異邦人の王キュロスが用いられることに反発するであろうユダヤ人に対しても預言をしています。
おそらく、ユダヤ人の中には、イスラエルの回復の時は、ダビデの家系の人を立て、まさに出エジプトのような奇跡で、帰還することこそ、主の御業だと考える者がいたに違いありません。
でも、イザヤは、主の御業に文句を言うものに厳しく預言します。
それは9-13節です。
「災いだ、土の器のかけらにすぎないのに自分の造り主と争う者は。粘土が陶工に言うだろうか「何をしているのかあなたの作ったものに取っ手がない」などと。」
イザヤは「災いだ」と述べています。
被造物に過ぎない私たちが、創造主であり主権者である主なる神様の働きに文句をいうことなどできないのです。
このことは、まさに私たちを謙遜にさせます。
何が、どのように、用いられても、私たちの口からは「ハレルヤ、アーメン」という告白が必要だからです。
ただし、これは逆に大胆さも考えることもできます。
主が働かれるとき、全く制限がないからです。
主は良い時、悪い時のどんな時でも、クリスチャン、ノンクリスチャン、異端者の誰でも、大きく、小さくのどのような形でも、人を用いることができるからです。
ですから、今日生きる上で、私たちは主の御業を期待してよいということです。
主は自由に、私たちの考えをはるかに超えて、良い働きをなさいます。
しかも、主が良い働きをなさらない瞬間なんて、有り得ません。
今日、私の現場で、良き働きをして下さる主を期待し、主を体験するものとなることを信じます。
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