おはようございます。
今日は、イザヤ49:1-13でした。
イザヤ書には、主の僕の歌という個所が、4つあります。
その中の第2番目が今日の個所です。
この僕とは、イザヤのことではなく、イエス様ご自身だ、と考えられます。
2節「わたしの口を鋭い剣として御手の陰に置きわたしを尖らせた矢として矢筒の中に隠して」
「鋭い剣」と「とがらせた矢」は、ヘブライ語の詩に現れる同義的平行法です。
つまり、同じ意味を持っている、違う表現だということです。
黙示録のビジョン、口から剣が出ている再臨の主の映像と同じものだと考えられます。
つまり、主の御言葉は、悪魔を打ち破る強い武器です。
しかし、注目すべきは、敵を倒す武器である鋭い剣、とがらせた矢が、隠されているということです。
主なる神様のみことば、その臨在は、はっきりとあらわされるのではなく、隠されているのです。
聖書において、神の奥義とも秘密とも呼ばれるものです。
時が来るまで、主の御心や、ご計画、主の働きは、私たちの目に見えない場所に隠されています。
イエス様の人生そのものが、それを表していました。
誕生から30年もの間、イエス様は公には何もされなかったのです。
もちろん、その30年のひと時も、父なる神様から離れたことはなかったでしょう。
イエス様は、時が来るまで、じっと、主の愛の中で、『静かなる召命』の中で、待っておられたのです。
主の時というのは、早くても遅くてもいけません。
そして、主の時がいつ来るのか?私たちには、理解できないものです。
ただ、私たちは、主が教えて下さる時まで、『静かな召命』の中で、主と共に待つしかありません。
主の中で待つとは、いわゆる「我慢」とは正反対の好意です。
何もしないのではなく、『静かなる召命』には、その召命にふさわしい働きがあります。
主の愛の中で成長し、主に祈り、主のご計画を準備しなければなりません。
イエス様が一生懸命、大工として家を支えたのと同じです。
主の時を待つ時間、私たちは、御言葉に対する反応を研ぎ澄まし、主の御声を聴かなければならないのです。
そして、なにより、私たちの確信は、鋭い剣であり、とがれた矢である主のみことばは、必ず、働くときがくることです。
その時は、喜びの時であることを13節で表しています。
13節「天よ、喜び歌え、地よ、喜び躍れ。山々よ、歓声をあげよ。主は御自分の民を慰めその貧しい人々を憐れんでくださった。」
もちろん、これはイエス様が再臨されて、新天新地が表れたとき、完全なる喜びがそこには満ちる、そのビジョンです。
イエス様の再臨こそ、主が時を定め、待っている究極のタイミングでした。
究極のタイミングであるからこそ、そこには究極的な喜びが語られます。
そして、今日という日を生きる私たちは、信じることができるはずです。
その究極の喜びが、今日という時間において、主が私に与えようとしている喜びであるということをです。
主の御言葉は、今日を生きる私に、その秘密を明かしてくださるのです。
聖霊様によって、天国で悟るであろう、神の奥義が、今日、私たちに与えられると信じます。
主が御自身を表してくださることこそが、私たちの喜びなのです。
天よ、喜び歌え、地よ喜びおどれ。山々よ、歓声をあげよ。
今日、私に主はご自分を表してくださり、主の秘密を明かしてくださった!
この賛美、この喜びで、満たされることを期待して今日一日歩みましょう。
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東京リビングストーン教会は、早天祈り会を行っている教会です。
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