おはようございます。
今日は、イザヤ58:1-14でした。
イザヤは、最初から、痛烈な偽善的宗教批判を展開します。
旧約の律法では、大贖罪日は断食の日として、定められています。
ゼカリヤ書では、年4回、断食をした記録があります。
そして、律法学者は週に2日断食していたようです。
たくさんの断食がありました。
しかし、どんなに断食をしたとしても、人に見せようとすれば、主は喜ばれないし、そんな祈りは答えられません。
主を真実に求めるのでなければ、断食はナンセンスだということです。
私はこの主に喜ばれる断食と、主に喜ばれない断食祈りの経験があります。
昔、リーダー時代、1週間の断食をやった時があります。
1週間後の礼拝は、たくさんの人が祈り通り礼拝を捧げ、次々と、祈り課題が応えられました。
そして、調子に乗った私は、もう1週間やったら、主がもっと豊かに答えてくれるのではないか?
と考えて、もう1週間やってみました。
結果は…散々でした。
もう、全然、人は来ないし、祈りは全く答えられませんでした。
主を純粋に求めた断食と、自分の都合でやった断食の2つを一気に体験したわけです。
何事もやって見て、体験しなければ、学ばないのが、私たちであるということです。
私たちが、もし、罪人であることを忘れてしまえば、その瞬間から主を求めることがなくなります。
そして、ただ、自分の中にある偶像だけを求めてしまうのです。
それこそが、私たちの自然な姿であることを忘れてはなりません。
では、結論的に私たちはどうすれば良いのでしょうか?
この結論は、13-14節に書いてあります。
代表して13節
「安息日に歩き回ることをやめ わたしの聖なる日にしたい事をするのをやめ 安息日を喜びの日と呼び 主の聖日を尊ぶべき日と呼び これを尊び、旅をするのをやめしたいことをし続けず、取り引きを慎むなら」
私たちは、律法に記されていることを忠実に守るだけでは、ダメです。
それは偽善的な宗教生活に落ちてしまいます。
逆に、律法を無視して、自由に自分の思い通りに振舞うことも、ダメです。
それは、信仰を与えて下さった主の御心を無視しながら、生活する矛盾に落ちてしまいます。
そして、その両方を混ぜて、比率的にバランスを取ったとしても、ダメです。
それは、天秤のようなバランスの問題ではないのです。
私たちは、律法を忠実に守りながら、自由に働かなければなりません。
これを同時に、やるのです。
13節と14節に2度書いてあるのは、「喜びとする」という単語です。
まさしく、私たちは、主を喜びとしなければなりません。
もっと躍動的に、もっと柔軟に、主を喜びとすべきです。
では、どうすれば、主を喜びにできるのでしょうか?
それは、日によって違うはずです。
私たちは、毎日、毎瞬間、祈り、考えなければなりません。
これをやれば、大丈夫だ!という信仰生活は、危険に満ちているからです。
今、出会う人によって、やる仕事によって、捧げる祈りによって、与えられる恵みによって、主を喜びにする方法が違います。
そして、それがどのような喜びなのかも、次々変化します。
今日は今日の主を喜びにする働きがあり、明日は明日の主を喜びにする働きがあります。
どれひとつとして、同じ祈り、同じ奉仕、同じ礼拝、同じ断食はないのです。
私たちのすべき断食、私たちの守るべき安息日とは、このようなダイナミックなもののはずです。
そして、これこそが、私たちが今日主の愛の中で生きている証しです。
何よりも、『主が生きておられる』証しなのです。
今日、主を喜びとすることを、主に求め、私が生きていること、そして、主が生きていることを証しするものとなることを信じて期待します。
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東京リビングストーン教会は、早天祈り会を行っている教会です。
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