おはようございます。
すいません、遅れました!
今日は、詩編89:39-54でした。
5月最後の詩篇89篇が続いています。
ここで描かれている情景は、直接的にはイスラエルに起こっている情景です。
北イスラエルは、アッシリアに負けて滅びてしまい、南のユダもバビロンに負けて滅びました。
エルサレム神殿は打ち壊されて、廃墟となって、バビロン捕囚されているのです。
そのような屈辱と苦しみの中かから、解放を願い祈っています。
ただ、私たちは、この89編は来るべき契約の完成であるイエスキリストに向かっている預言であると知っています。
この39節からの詩編の言葉は、まさにイエスキリストの上に注がれている神の怒りです。
39節にある通り、父なる神様自ら、子なるイエスキリストへ、怒りを向け、退け、見捨てられました。
ゴルゴタの丘に向かい十字架に付けられるイエスキリストが、42節に描かれます。
イエスキリストがなくなるその瞬間の「レバレバサバクンタニ」は、父から見捨てられたその悲しみ、苦しみ、悔しさを語っているのです。
この罪から来る罰を真正面から受けて耐えられる方は、イエス様お一人でした。
この苦しみの中にあっても、父なる神様との愛の関係は切れることがないことを、完全に信頼しておられました。
真の人であるイエス様は、十字架に掛かって死んでから自分がどうなるか、知らなかったはずです。
このイエス様は、父なる神様の3日目に復活させるという約束が、確実なものであることをただ信じていただけです。
完全なる信頼のみが、イエスキリストを、十字架の死へと向かわせたのでした。
このようなイエスキリストの苦しみは、まさに私たちが受けるべき苦しみであったことを聖書は証します。
私の受けるべき罰、恥、怒り、裁きは、すべてイエスキリストがお受けになって下さいました。
私の受ける裁きは、もうありません。
47節にある、「いつまで、主よ隠れておられるのですか?」というこの言葉に答えは明確です。
もう、主が隠れることはない!のです。
もちろん、主が遠くにいらっしゃるような、苦しみと絶望の中で叫びたくなる瞬間がくるかもしれません。
しかし、主は隠れていません。
イエスキリストにおいて示された愛、その贖いの御業は、私たちの目の前にいつもあります。
イエスキリストが、全ての罰を私の代わりに受けて下さったので、39-52節は全てなくなりました。
ですから、私たちに残っているのは、53節だけです。
「主をたたえよ、とこしえに。アーメン、アーメン。」
私たちの捧げる感謝は、引き裂かれたキリストの血と体を覚えることにほかなりません。
私の目の前にあるイエスキリストの贖いの御業を、いつも忘れないこと。
これこそが、私たちの捧げる感謝で、捧げる賛美です。
今日も私たちは、この愛の上に立っていることを信じて、この愛とともに、大胆に歩むことを期待します。
――――――――――――――――――
東京リビングストーン教会は、早天祈り会を行っている教会です。
毎日午前6:00~7:00までお祈りの時を持っています。