おはようございます。
今日は、使徒3:1-10でした。
使徒言行録は3章に入ります。
教会の最初の迫害が起きるきっかけが、このシーンです。
今日は、最も中心的なペテロのセリフである6節を取り上げます。
6節『ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」』
ペテロが持っていたのは、何だったのでしょうか?
直接的には、もちろんイエスキリストの名前だったのでしょう。
でも、このセリフの言い方だと、それだけに限定することもできません。
もしかすれば、聖霊様による恵みの力だったかもしません。
もっと漠然として、聖霊様の満たしだったのかもしれません。
実は、何を持っていたか?は、私たちが自由に黙想していいものです。
しかし、もっと重要なのは、次のことです。
ペテロは、どうやって、それを持っていたのか?です。
この「持つ」というギリシア語は、同じ意味の、所有する、だけではなく、受け取るという意味もあります。
私は、この『受け取る』という単語が著者のルカが意図したところではないかと思います。
(ちなみに、使徒ペテロは、ヘブライ語でこの言葉を話しているので、ルカはそれをギリシア語に翻訳する段階で、信仰による解釈が入るはずです。)
自分の受け取ったものとは?
つまり、2章全体を使ってそれが表現されているものです。
そのとおり、聖霊様ご自身です。
受け取った聖霊様によって、何が起こったのでしょう?
使徒たちは、生前のイエス様のすべての行動を理解しました。
それまで、「ナザレのイエス」だったものが、「イエス・キリスト」となった、その瞬間だったのです。
しかし、イエスキリストの名前を使うのと、イエスキリストの名前を持っているのと、意味は全く違います。
まず、私たちはイエスキリストの名前を持つことができるのでしょうか?
答えは、不可能だと言わざるを得ないでしょう。
私たちは、地上において、イエスキリストを所有することはできません。
にもかかわらず、罪人である私たちが、イエスキリストを所有することができる唯一の道があります。
それは、イエスキリストが私たちを所有することです。
つまり、聖霊様を受け取り、聖霊様に満たされることです。
イエス様ご自身が、私を所有するときだけ、私はイエス様を所有することができます。
2章の聖霊体験は、使徒たちに、イエス様と自分たちとの強い結びつきを感じさせたでしょう。
まさに、自分たちが御手の中に包まれて、抱きしめられるような、熱い体験だったと思います。
私たちは、口で、イエスキリストの名前を出すことは、よくやりますし、慣れてしまってもいます。
祈りの度に、イエスキリストの名で祈ります。
何かあるたびに、主よ、主よと、言います。
しかし、そこでイエス様に私が所有されているという、強い愛の結びつきを感じているか?
私たちは、もう一度、立ち止まる必要があります。
聖霊様は、まさに愛の帯です。
この聖霊様の愛の帯によって、私たちは主なる神様に結ばれています。
このことを今日も、体験しない限り、私たちは本当の意味で、イエスキリストの名を口にすることはできません。
私は、愛の帯によって、神ご自身と結ばれている!
私はイエス様のものであるから、イエス様は私のものとなってくださっている!
私たちは、このようなことを、高らかに宣言しましょう。
この愛を、今日も強く体験し、この愛によって立ち上がることを期待します。
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