おはようございます。
今日は、使徒言行録7:37-53でした。
昨日に引き続き、ステファノの説教が続いています。
ステファノの説教の中心は、律法学者たちがいかにイエスキリストを拒否したのか?ということでした。
アブラハムやモーセの話をするのは、律法学者たちが尊敬して止まない、預言者たちこそが、イエスキリストを表すことを強調したかったのです。
37節「このモーセがまた、イスラエルの子らにこう言いました。『神は、あなたがたの兄弟の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。』」
この預言者こそが、イエスキリストです。
民は、エジプトを懐かしく思って、モーセに背いて偶像を作ってしまいました。
まさに、イエスキリストに背いている律法学者は、心の中に偶像を作って、それを楽しんでいると、批判しているのです。
43節に、バビロン捕囚の姿がアモス書を引用して描かれます。
イエスキリストを殺したイスラエルの民は、場所こそエルサレムにいるのですが、心は主なる神様から離れていました。
まさに、彼らは『心の捕囚民』だったのです。
このことは、44節から始まる神殿論に繋がります。
律法学者たちのこだわりは、エルサレムにある神殿でした。
この神殿こそが、彼らのアイデンティティでした。
しかし、ステファノは言います。
モーセの時代からずっと神殿は無かったじゃないか!と。
神殿を建てたソロモンでさえ、「いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。」を知っていたのです。
モーセの幕屋は、まさにイエスキリストそのものを表していました。
一番外はジュゴンの皮で覆われて、ちょっと汚い、ちょっと臭い、みすぼらしく見えます。
中に入るにつれ、十字架で流される血の赤の色の布と、罪が完全に清められる白の色の布を通して、一番中は全てが黄金で囲まれています。
幕屋がイスラエルの民と共にあったことは、イエスキリストが民の中にいらっしゃったことと同じだということです。
この幕屋を律法学者たちは捨てました。
目に見える、豪華だけど偽物の神殿を、彼らは偶像としました。
本物の幕屋から離れた彼らは、心の捕囚民として、異邦人と同じ生活をしていたのです。
ステファノは51節から激しい言葉で言い表します。
51節「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。」
心と耳に割礼を受けていない人たち。
これこそは律法学者たちが一番聞きたくなかったことばです。
しかし、ステファノの説教は、律法学者だけでなく、私たちにも直接与えられた説教です。
信じて救われた私たちは、モーセの出エジプトと同じことが起こっているからです。
私達も洗礼という紅海を渡り、約束の地へ導かれています。
聖霊様が私たちの割礼です。
しかし、もし私たちがイエスキリストという幕屋から離れてしまい、偽物の神殿を偶像とするならばどうなるのでしょうか?
イエスキリストから離れれば、『心の捕囚民』となります。
クリスチャンでない人たちと同じ生活をするしかありません。
心と耳に割礼を受けていない者!
これは、私たちにこそ、突き刺さらなければなりません。
今日も、救われた神の子として、聖霊様の恵みを受けなければなりません。
その恵みによって、イエスキリストと共にあり、
その恵みによって、神の御言葉に聞き従うことを信じて期待しましょう。
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