おはようございます。
今日は、使徒言行録14:19-28でした。
今日の個所で、第一次宣教旅行が終わります。そのまとめです。
リストラで奇跡をおこなったパウロは、最後に石を投げつけられてしまいます。
しかし、死んだように思えたパウロが、どうなったのかと言えば、
20節「しかし、弟子たちが周りを取り囲むと、パウロは起き上がって町に入って行った。」
ルカの愛してやまない単語、「起き上がって」が使われています。
つまり、パウロは、まさに死から命を与えられる復活の恵みによって立ち上がり、宣教旅行を続けました。
この宣教が、聖霊様によるものだとルカは告白したのです。
第1次宣教旅行で特徴的なのは、その旅程です。
一筆書きで、ぐるっと世界を周った第2次、第3次とは違い、第1次宣教旅行は、来た道を忠実に戻っていきます。
いわゆる、Uターンです。
21節と22節を見て見ると、
告げ知らせ、弟子にして、引き返しながら、言って、励ました
このように沢山の動詞が使われていますが、この中で主動詞、つまり、メインとなるものは、1つしかありません。
それが、「引き返し」です。
つまり、パウロとバルナバの目的は、引き返すことにあったのです。
引き返して何をしていたかと言えば、建てられた教会、兄弟姉妹たちのフォローアップでした。
ただ、福音を告げ知らせて、信仰に入った兄弟姉妹たちが与えられただけで終わりませんでした。
特に、リストラでパウロがひどい迫害にあったことは、この小アジアの世界に広がっていたことでしょうから、苦難に対する励ましも必要でした。
イエス様が警告された、岩場のような、芽が出ても、苦難によってダメになってしまう信仰の畑にならないように、フォローしたのです。
重要なフォローアップが、23節です。
長老、つまり信徒のリーダーを任命し、祈りました。
そして、この最後にある単語は非常に重要です。
「彼らを信ずる主に任せた」
新改訳では、「委ねた」と訳されていて、「委ねた」の方が、原文に近いです。
ただ、26節にも「委ねられて送り出された」という同じ訳が出てくるから注意が必要です。
このふたつは、単語が違います。
23節の委ねるは、「すべてを主の前に差し出す」という意味が強く、
26節の委ねるは、「自由を与えて解き放つ」という意味が強い単語です。
パウロとバルナバは、いま兄弟姉妹たちに出来ることは全部した後に、すべてを主の前に差し出したということです。
実に、この23節の任せるという行為は難しいものです。
本当に自分たちがやれるところまでやったのか、主に任せる段階なのかどうか、
などなど、不安に思うことは次々と現れてきます。
ただ、私たちが基本的に信じなけれならないことは、こういうことです。
私は何も握っていないということです。
信仰でさえ、私のものではありません。
聖霊様も、主の恵みも、福音さえも私たちは握ってはおりません。
真実は逆です。
私は、主に握られているのです。
ですから実に、「任せる」とは、すべては主の手にあり、私は主の手に握られていることを信じることに他なりません。
主の手に握られているから、私たちは、自分の全力を出すことができます。
そして、主の手に握られているから、逆に執着したり、依存したりもしないのです。
時に私たちは、自分の着た道を、引き返すことが必要なときがあります。
主が働いてくださった御業の跡を見れるからです。
ああ、すべては主の御手にあった。
この告白は力を私たちにくれます。
ですから、主の働かれた私の道を再確信しながら、今日も、私を愛してやまない主に、すべてを任せるものとなると信じて期待します。
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東京リビングストーン教会は、早天祈り会を行っている教会です。
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