おはようございます。
今日(23日)は、使徒19:1-10でした。
使徒パウロは、既に第3次宣教旅行へ出かけています。
彼が最も長く滞在し、愛を注いだエフェソにやってきました。
今日の前半部に書いてある弟子たちは、ちょっと不思議な状態にあったようです。
洗礼者ヨハネの水の洗礼は知ってるが、聖霊の洗礼は知らないという人たちでした。
初代教会において、このような状態は普通だったのかもしれません。
何より、イエス様の周りにいた弟子たちも、何人かは洗礼者ヨハネの洗礼を受けていました。
しかし、彼らはペンテコステで聖霊を受けるまで、聖霊の洗礼は受けていなかったのです。
つまり、水による洗礼と、聖霊による洗礼の間に、期間が空いている状態です。
現代において、この典型的な例は、幼児洗礼を受けた子供たちでしょう。
幼児洗礼は、子供自身に信仰があるわけではありません。
水の洗礼が先にあります。
幼児洗礼を認めない教派もありますが、旧約聖書の割礼の伝統を受け継いで、目に見える教会の一員として水の洗礼を授けます。
子供たちは、水の洗礼の後に成長し、みことばを学びます。
親と教会の兄弟姉妹たちの祈りに支えられて、聖霊の洗礼を受ける、つまり、イエスキリストと出会うのです。
まさに、今日、聖霊を受けていない弟子たちが、使徒パウロによって、みことばが解き明かされ、
按手祈りによって聖霊のバプテスマを受けたのと同じことが、起きるわけです。
ただ、現代において、この状況は、幼児洗礼者だけなのか?といえば、そうではありません。
クリスチャンとしてイエス様に出会った私たちにも、このことは重要です。
もちろん、私たちは聖霊がなんであるか知っていますし、聖霊の洗礼を受けました。
しかし、いつなんどきでも、聖霊とは関係ない存在として歩む可能性があります。
私たちの信仰は、聖霊様によって与えられています。
イエス様によって、私たちの命は、保たれているわけです。
もし、私たちが、そのイエス様の働きを忘れ、離れてしまえば、どうなるでしょう。
私たちは、水による洗礼を受けただけの、教会に通うただの人に戻ってしまいます。
聖霊様が与えて下さる、生きているクリスチャンではなくなってしまいます。
信仰は、歴史です。
昨日の信仰に、今日の信仰は、さらにプラスして成長することができます。
しかし、その信仰は、一瞬で消え去る弱さもあるということを忘れてなりません。
『信じます。信仰のない私を助けてください。』
という時だけ、私は堅固な信仰のが与えられるのです。
毎日、新しくイエス様と出会い、聖霊様を受ける人にのみ、信仰は成長を見せるでしょう。
私たちが、水の洗礼を受けただけの、ただの教会の人として生来てしまっては、もったいない限りです。
今日も、イエス様に出会い、聖霊を受けて、福音による命をもって生きることを、慕い求めるものとなりましょう。
主と共に、一歩前へ。を信じます。
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東京リビングストーン教会は、早天祈り会を行っている教会です。
毎日午前6:00~7:00までお祈りの時を持っています。