おはようございます。
今日は、使徒19:11-22でした。
今日も続けて使徒パウロのエフェソ宣教が行われています。
ここでの出来事は、11節に書いてあります。
11節「神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた。」
目覚ましいという単語は、「けた外れの」という意味です。
手ぬぐいだけでも癒しの御業が起こるほどの奇跡がたくさん起きていました。
なぜ、主なる神様は、エフェソにこのような奇跡をおこなわれたのでしょうか?
これはエフェソという町の特徴を知らなければなりません。
エフェソは当時でも、多くの都市の中で魔術が有名な都市でした。
エフェソには、魔術師、オカルトにはまる人、占い師、祈祷師、あらゆる人がいました。
そして、魔術の道具や本のようなグッズも売られていたのです。
少し前のアテネは知性の町でした。
ですから、知性的なメッセージによって使徒パウロは対抗します。
一方、ここエフェソでは、魔術に対抗すべく、主なる神の御業が行われたのです。
使徒パウロの行う癒し、悪霊を追い出す御業によって、主こそが本物であることを力によって見せつけたのです。
宗教的なパワー対パワーの戦いでした。
13節から描かれる出来事も、それを象徴しています。
悪霊が恐れるイエスキリストの御名が、奇跡を通して広がっていたのです。
この状況をみて、ルカは20節を書きます。
ルカは使徒言行録で、宣教の働きが大きく拡大すると、このような言葉を必ず書きました
実に、今日の20節は、5回目です。
神の御言葉がますます広まった。
この明らかな主なる神様の御業に、著者ルカは、驚きと賛美を告白しているのです。
八百万の神の国として有名な日本においても、パワー対パワーの戦いは、時に必要となります。
しかし、日本の場合は、科学技術も発展しているために、理性的な思考と、占いなどの宗教的な思考が混ざっている複雑な風土を持っています。
アテネのように理性と哲学だけの町でもなく、エフェソのように魔術とオカルトだけの町ではありません。
どっちか一方だったら、やりやすかったかもしれません。
しかし、日本人は、どんなに偉い科学者でも、雑誌に書いてある占いを信じる人もいます。
どんなに哲学していても、神社に行ってお参りしたりします。
論理と非論理が交わっています。
矛盾する宗教感をいくつも抱えながら生きているのです。
日本における宣教には、宗教的なパワーも必要であり、理性への訴えかけも必要だということです。
この日本には、この日本にふさわしい主の奇跡が必要なのです。
時に目に見える奇跡が必要であり、時に目に見えない奇跡が必要です。
時にストレートな福音が必要であり、時に隠されている福音が必要です。
私たちの慰めは、次のことです。
この宗教と理性の総力戦における主語は、『私』ではないということです。
11節の主語は、誰だったのでしょうか?
そうです、「神が」と書かれています。
使徒パウロのエフェソ人への手紙を思い出します。
この戦いは霊的な戦いであり、神の武具が必要な神の戦いなのです。
エフェソ6:18「絶えず目を覚まして根気良く祈りなさい」
これは、祈りの戦いなのです。
20節の告白そのものが、私の口から出ることを願いましょう。
『神の言葉は、ますます広がり、力をまして行った!』
この勝利が、主から与えられることを、ひたすら祈り、神の戦いに参加することを祈り願います。
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東京リビングストーン教会は、早天祈り会を行っている教会です。
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