おはようございます。
今日は、歴代誌上9:35―10:14でした。
今日の個所は、サウル王の系図と死に際の話しです。
10章の最後13-14節「サウルは、主に背いた罪のため、主の言葉を守らず、かえって口寄せに伺いを立てたために死んだ。彼は主に尋ねようとしなかったために、主は彼を殺し、王位をエッサイの子ダビデに渡された。」
ここに、「伺いを立てる」「尋ね求める」という求める単語が使われているのが注目すべきポイントです。
それは、サウルという名前そのものの語源にあります。
サウルという固有名詞は、ヘブライ語「シャーアル」からできています。
この単語こそ、13節に使われている「伺いを立てる」です。
ヘブライ語で、サウルという言葉は、三つのヘブライ文字出てきています。
最初の文字『シーン』は、歯という意味を持っていて、「食いつく」イメージをもっています。
次の『アレフ』は、力あるものを表現しています。
最後の『ラーメド』は、杖を意味していて、導くイメージがあります。
この『アレフ』と『ラーメド』がくっついた単語は、『エール』で、意味は「神」です。
つまり、サウルという単語は、神に食らいつく=神を求めるという意味を持っているのです。
しかし、皮肉なことに、サウルは神を求めることをしませんでした。
むしろ、13節に書いてある通り、本当の神ではなく占い師、偽物の偶像を求めてしまいました。
ヘブライ語は、非常によくできた言語です。
神を慕い求めるという単語のシャーアルと同じ語源から、神を慕い求めなかったものが最後に行く場所としての単語、「黄泉(よみ)、死の国」という意味のシェオールが生まれるのです。
まさにサウルは、神を慕い求めず、神ではないものを求めてしまったがために、死の国である黄泉へ行かなければなりませんでした。
神を求めるという単語と、死の国である黄泉という単語が、同じ語源を持っているということは、私たちに大きな警告を投げかけています。
人間は、罪人であるがゆえに、足りない存在です。
自分で自分を満足させることが出来ません。
ゆえに、自分ではない、何か他のものによって、自分を満たす以外に生きる道が無いのです。
つまり、何かを求めないという生き方は、人間には不可能だということです。
しかし、求めることはいいことですが、真実なる神を求めるのでなければ、私たちは道を踏み外します。
神ご自身のみが、私たちが求める方であることを、ひと時も忘れてはなりません。
サタンの戦略は巧妙です。
ですから、私たちを神ではないが、神に近いものへ目を向けさせます。
例えば、神ではない、しかし、善きものであろう宣教、恵み、祝福、聖書、礼拝、奉仕、賛美などへ、私たちを集中させてしまうのです。
神から離れた宣教、恵み、祝福、聖書、礼拝、奉仕、賛美などは、全くの無意味であることを、聖書は告白しています。
イエス様が、そこに生きていらっしゃらないのであれば、それは虚しいものなのです。
サウルは、その道を誤りました。
その罪は、聖書に記録され永遠に残ることになってしまったのです。
しかし、新約聖書を知っている私たちは、希望を見出すことが出来ます。
サウロと呼ばれた使徒パウロがいるからです。
まさに、サウロは、このサウルと同じ理由から名づけられました。
しかも、使徒パウロは、サウル王と同じベニヤミン族でもあります。
そのとおり、サウロ(パウロ)は、主ではないものを求めてしまったサウルの道ではなく、本来のサウルとしての人生、神を求めるものとして歩むことになるのです。
それはイエスキリストの働きであったことは、言うまでもありません。
イエスキリストを信じてる私たちは、まさに、主を求めるものとなることを、願わなければなりません。
主ご自身だけを求め、主ご自身だけに近づく私と皆さんとになることを信じて期待します。
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