おはようございます。
今日は、歴代誌上13:9―14でした。
ダビデが神の箱をエルサレムへと運び入れようとするときに事件が起きます。
これはダビデにとっても、民たちにとっても衝撃でした。
神の箱を民数記通りに運んでいれば、こんなことにはなりませんでした。
神の箱を運んでいたのは、レビ人たちでした。
しかし、レビ人でさえ神の箱の運び方を知らなかったわけです。
民の誰もが歓迎して、お祭り騒ぎをしていたその最中に、人が死んだわけですから、民の熱狂は一気に冷めたでしょう。
ダビデはこのように反応しています。
11節に「ダビデも怒った。主がウザを打ち砕かれたからである。その場所をペレツ・ウザと呼んで今日に至っている。」
ダビデの怒りは、様々な方向に対する怒りだったのでしょう。
ウザを殺した神に対する怒り、神の箱の運び方を知らなかったレビ人に対する怒り、なにより、ぬか喜びをしていた自分に対する怒りが重なっていたと考えられます。
この事件は、私たちにも衝撃です。
ダビデのしようとしていたことは、主の御心にかなっていることでした。
神を求めようと、主の臨在の近くにいようと、神の箱を運んでいましたた。
神の箱が落ちないように手を伸ばしたウザの意図も、悪いものではありませんでした。
神の箱を守ろうとして、言うならば神のために、手を差し伸べたからです。
しかし、「神のために」というダビデの良い意図も、ウザの善い意図も、主の御前には評価されなかったのです。
主の御業は、主の方法でなされなければなりませんでした。
ここで、ちょっと勘違いしやすいのは、神の御業は、聖書に書いてある通りに行われるべきだという意味ではありません。
とするならば、私たちは持ち物のすべてを売って共有して教会を建て、礼拝にはギターもゴスペルも歌えなくなります。
なにか、固定されている主の方法論が、聖書にあるわけではないのです。
その意味では、聖書は別にクリスチャンが生きる上で守るべき教本とか、テキストのようなものではありません。
いや、それよりはるかに上の存在です。
私たちはその都度、主の方法を求める必要があるということです。
聖書こそが、唯一の主の啓示の直接的記録だからです。
聖書を通して、私たちは主の意図、計画、御心、約束、方法を、黙想し、吟味することが可能です。
聖書を離れては、祈りは出来ませんし、礼拝もできません。
聖書を通して、聖霊様が私たちに教えてくださるのです。
ダビデはどうすれば良かったのでしょうか?
いつもの通り、主に託宣を求めればよかったのです。
なぜ、それが出来なかったのか?
明らかに主の御心にかなう事だと思って、油断してしまったのです。
この油断こそが、敵です。
特に、主の御心にかなうことが明らかであるような事を私たちがするとき、注意が必要です。
祈り、礼拝、賛美、デボーション、証し、宣教…。
これらは、主が喜ばれることが、明らかです。
しかし、主のためにと言って、主の方法ではない行動をしてしまえば、ウザのように私たちは打たれてしまいます。
「これは、本当に主の御心なのか?」と、心配になるような事は、私たちは良く祈ります。
結果、そういうことは、間違う可能性が少なくなります。
一方、「これは主の御心で間違いない。」「聖書に書いてあるしね。」と、確信できる事こそ、祈らないことが多いです。
祈らずな、足を踏み外す可能性が高くなってしまいます。
そんなわけですから、今日、私たちが特に聖書に書いてある事をするときにこそ、
もっと主に祈り、主を切に求める私たちとなりましょう。
――――――――――――――――――
東京リビングストーン教会は、早天祈り会を行っている教会です。
毎日午前6:00~7:00までお祈りの時を持っています。