おはようございます
今日は、歴代誌上29:1-9でした。
29章は、歴代誌上のクライマックスです。
神の家、つまり聖殿を建てるための準備、そのための祈りがここにかかれるからです。
良くこの祈りは、献金の時の祈りであるとか、宣教のための奉仕の祈りだとかに引用されて有名な個所でもあります。
ただ、非常に残念なのは、ダビデ王が自ら捧げたことが、どのような意味において主とつながっているか、あまり語られないことでしょう。
自ら自由に捧げることが、喜びの献身であることは、明らかです。
しかし、なぜ、そうなのか?私たちは考えなければなりません。
私たちの気をつけるべき落とし穴は、
ダビデのように、私たちも進んで、自ら主に献身し、共に喜びましょう!というような、安易な適用や、
深い黙想をせずに、宝飾品として祈りの文章を引用してしまうことです。
さて、ダビデはなぜ、神殿を建てることをソロモンに委ねたのでしょうか?
これは既に歴代誌において語られています。
あれほど神の家である神殿を建てたいと願っていたダビデを止めたのは、主でした。
その時の理由は、ダビデはあまりにも多くの血を流したからというものでした。
たしかに、神殿を建てる手として、血を流した手はふさわしくないのかもしれません。
考えてみると、主は、そのようなダビデの戦争の血をぬぐって、清めてしまうこともできたはずです。
なぜ、主のご計画は、その子ソロモンが、神殿を建てることだったのでしょう?
父ダビデではなく、子ソロモンが神の家を建てるというこの構図を見て、私たちは思い出さなければなりません。
そのとおり、この地上に神の国を到来させ、神の家である『教会』を建ててくださったのは、父なる神様ではなく、御子イエスキリストだったということです。
つまり、父ダビデではなく、子ソロモンによって、神の家が建てられることは、
まさに、御父ではなく、御子イエスキリストによって、教会が建てられることの『影』なのです。
イエス様の働きを啓示するために、ダビデとソロモンは、その役割とおりに用いられたのでした。
そして、今日の個所で父ダビデが、神殿を建築する子ソロモンのために、大量の献品をします。
神殿を建てるためのすべての材料は、父が準備し、子に与えたのです。
これも、まさに影です。
父なる神さまが、御子イエスキリストのために、『教会』を建てるための全てをご準備されたということです。
しかも、それは正に直接的に、神の子であるクリスチャン、つまり、私たちに適用されます。
父なる神さまは、自ら進んで、御子イエスキリストのために、すべてを備えられました。
だからこそ、私たちクリスチャンにも、御父は、すべてを与えてくださることが確信できるのです。
そこには、他者の平安だけを考えるアガペが存在しているだけです。
ですから、今日のダビデの祈りの場面は、ダビデが主に進んで献品して、それが模範となり、民たちも献品して、そこに喜びがあふれたというような単純な話ではないことは明らかです。
父なる神さまが御子イエスキリストのために全てを準備され捧げられたように、
神の子であるクリスチャンにも同じようになさってくださることへの約束なのです。
あり得ないほどの、父なる神さまの準備物は、今日も私たちに溢れています。
主の祈りの、「日々の糧を今日も与えてください」は、父なる神様の自ら準備した豊かな糧があることを信じなければ祈れません。
しかも、父ダビデの子ソロモンへの愛を見て、民は心が動かされました。
同じように、父なる神さまの、御子への愛を見て、イスラエルは動かされました。
そして、12弟子が、使徒パウロが、信仰の偉人たちが・・・そして、私たちが動かされています。
父なる神から御子イエスキリストへの愛、そこにある自由。
私たちが働くのは、まさにこのアガペの愛が働いているからにほかなりません。
私たちが主に献身するとき、何より父なる神さまが御子のために捧げられた愛、犠牲をおぼえる必要があります。
それは同時に、御子が私たちのために捧げられた愛、犠牲をおぼえるのと同じです。
その愛に感動され、私にもその愛が与えられなければ、全ての献身は無意味です。
父と子と聖霊の神の愛に私たちは捉われて、その愛ゆえに祈り、その愛ゆえに献身し、その愛ゆえに働く私たちとなりましょう。
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東京リビングストーン教会は、早天祈り会を行っている教会です。
毎日午前6:00~7:00までお祈りの時を持っています。