おはようございます
今日は、詩編93:1-5でした。
詩編93篇は、主なる神様が王なる方であることを賛美しています。
これは新約聖書の「神の国」のテーマに繋がるものです。
地上における私たちの間にある神の国も、
未来に来る天国としての神の国も、
その王は、主なる神様です。
主の祈りにも、「御国を来たらせたまえ。」とあります。
これは、主なる神様の王権が、天と地に満たされることを、祈っています。
主が王であることをもう一度黙想したいと思うのです。
1節「主こそ王」と書いてあります。
日本語では「王である」という風に王という名詞が使われているような訳し方です。
しかし、ヘブライ語では名詞ではなく動詞が用いられています。
つまり、『主は治められる。主は統治される。』となっているのです。
主なる神様は、王として玉座に静かに座りっぱなしの方ではありません。
治めるという働きによって、王なのです。
創世記から黙示録に至るまで、主なる神様の働きが止まったことはありません。
いや、主がその手をお止めになると、この世界は世界として成り立たなくなってしまいます。
常に、この世に主の力、王としての統治が注がれているのです。
ですから、主は、昨日も治め、今日も治め、そして永遠の未来も治めておられます。
しかも、この王は治めるだけの王ではありません。
王であるイエス様は、神であり人であったのです。
つまり、治める神だけではなく、治められる人でもありました。
地上におけるイエス様は、父なる神さまにすべてを、お委ねしました。
完全なる従順、完全なる謙遜を、徹底的になさったのがイエス様です。
それは、まさに父なる神様が治めていることに対する信頼が、それを可能としたのです。
父なる神さまと、子なるイエスキリストの親密な愛が、この治める、治められるという関係を支えています。
つまり、この王は、治める側の立場(神)だけではなく、治められる側の立場(人)にも立ち、本当の意味で、すべてをご存じだということです。
この王は、私たちのすべてを知っています。
それこそ、新約聖書に書かれるように、髪の毛の数さえも、ご存じです。
時に誘惑に倒れ、時に罪を犯す、よわよわしい存在の私をご存じなのです。
主は、すべての威光、力、尊厳を持って治める王としての神です。
そうでありながらも、同時に、罪人である私と同じ立場、治められる人間でもあります。
私よりも私を知っているこの王に、自分を治めてもらうより他に、これ以上の平安があるでしょうか?
私たちのベストは、それを知っている方に全てを委ねることじゃないでしょうか?
今日も、この王なる主に、すべてをゆだね、治めていただくことを、祈り求め歩みましょう。
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東京リビングストーン教会は、早天祈り会を行っている教会です。
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