10月11日早天メッセージ

投稿者: | 2018年10月11日

おはようございます
今日は、詩編99:1-9でした。

詩編99篇の特徴は、3,5,9節に出てくる「主は聖である」という言葉です。

主が聖であるから、主は礼拝されるべき方であると、99篇は人たちを礼拝へと招きます。

ご存じの通り、聖とは、区別されていること、比べられないこと、説明できないこと、などを表しているヘブライ語です。

人とは区別され、人には説明することが出来ない方こそが、私たちの神です。

ある神学者は「神は人に理解されたら、それは、もはや神ではない」と言ったくらいです。

三位一体という名前を付けて、主なる神を何とか理解しようとしていますが、
しかし、人間の言語で表すことのできる神は、既に神ではないことを忘れてはなりません。

中世において、教会の持っていた神観は、あまりに聖すぎて、まるで人間とは全く関係のない方となってしまいました。

その中で、16世紀に発達した啓蒙主義は、人間と関係のない聖なる神というものは、地上に存在しないことを主張します。

そして、ついに、ニーチェの『神は死んだ』という結論に至るのです。

確かに神は聖でありますが、聖だけが神の性質ではありません。

今日の詩篇99篇でも、神は聖であると告白しながらも、もう1つの大切な面をも賛美しています。

6節「主の祭司からはモーセとアロンが御名を呼ぶ者からはサムエルが、主を呼ぶと主は彼らに答えられた。」

この聖なる神は、人と関係ない方ではありませんでした。

この聖なる神こそが、人の祈りを聞き、雲の柱によって人を守られ、御声をかけられたのです。

8節「我らの神、主よ、あなたは彼らに答えられた。あなたは彼らを赦す神。彼らの咎には報いる神であった。」

人をゆるす神でありながら、人の咎に報いる神という矛盾した告白です。

この矛盾を解決される方は、お一方しかいません。

神であり、人であったイエスキリストなのです。

神は聖であり、人とかけ離れている方でありながら、同時に人でもあって、人と密接な関係が結ばれています。

いや、密接な関係というのでは足りないのです。
イエス・キリストは、私たちと同じ肉を着てまで、人と同じになられました。

つまり、ニーチェがいう「神は死んだ」という無神論は正に、真実だったのです。

聖だけであるような神は、死んでいるのです。

皮肉なことですが、神でありながらも死んでくださった、イエスキリストこそが、今も生きている私たちの神なのです。

イエスキリストこそが、呼べば答えられる主です。
私たちを赦し、私たちの咎のために神の裁きを身代わりに受けてくださった主です。

まさに、人の理解を越えた、神。
しかし、私の現場に出会いにやってきてくださる神。
今日も、私たちの祈りの叫びに答えてくださる神。

わたしたちは、主と共に歩む希望と喜びで、一日生きるものとなりましょう。

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東京リビングストーン教会は、早天祈り会を行っている教会です。
毎日午前6:00~7:00までお祈りの時を持っています。