おはようございます
今日は、詩篇102:12-28でした。
詩編102篇は、新共同訳の1節が大切な背景です。
(韓国語では、前文)
1節「祈り。心挫けて、主の御前に思いを注ぎ出す貧しい人の詩。」
この詩の作者は、心がくじけ苦しみの中にあります。
苦しみの中で出る心の呻きがこの祈りとなっているのです。
壁にぶつかったとき、人生に希望を見出せないとき、この詩編は、私達がどこに顔を向ければよいかを語ってくれます。
私の心の中で響いたのは19節でした。
「後の世代のためにこのことは書き記されねばならない。「主を賛美するために民は創造された。」」
実は、ヘブライ語の原文では少し違う意味を持っています。
新共同訳よりは、新改訳の方が直訳に近いです。
「次のことが、後の時代のために書きしるされ、新しく造られる民が主を賛美しますように。」
後の時代(世代)と訳されている言葉は、本来、最後の世代という意味です。
この世代は、いわゆる終末と呼ばれる時代であります。
そして、終末の始まりは、いつかと言えば、イエス様がお生まれになった時、それが終末の始まりなのです。
よって、私たちの生きているこの時代、私たちこそが最後の世代なのです。
そこに、新しく造られる民が出てきます。
2コリント5:17がそのまま当てはまります。
「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」
もちろん、この詩編の作者が、希望に抱いている姿は、究極的には天国で、新しく造られる復活の体で、主のそばで主を賛美している姿です。
一方で、この天国の礼拝の未来のビジョンは、そのまま、現在生きている私達の姿に定期用出来ます。
新しく創造された者であるクリスチャンが、主を賛美する時代は、『今』だからです。
旧約聖書の全ての偉人が求めたもの、アダムもノアもアブラハムも、ダビデも、誰でも、体験したかったのは、新しく創造されることでした。
私達が、すでに体験して、さらに、今でも体験し続けている新しくされることこそが、全ての信仰者の希望だったのです。
どのような苦しみがあっても、地上において虚しさを感じ取っても、唯一の希望は、私達が祈り求めるべきものは、主が私達を新しくして下さることなのです。
私達は既にこれを知っています。
既にこれを体験しています。
そして、さらにさらに、私たちは主と出会い、主が私を作り替えて下さることを希望に思い、求めなければなりません。
私達は滅びるかもしれません、朽ち果てるかもしれません。
しかし、主は永遠なる方であり、昨日も今日も明日も変わりません。
むしろ、私達が死んで、滅び、朽ち果てるからこそ、イエスキリストは私の中で生きることになります。
この地上における虚しさは、イエスキリストによって、栄光に満ちたものと変えられるのです。
唯一の希望である、イエスキリストが、私の中で生きていらっしゃり、私を今日も作り替えて下さることを願い祈りながら、歩む者となりましょう。
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東京リビングストーン教会は、早天祈り会を行っている教会です。
毎日午前6:00~7:00までお祈りの時を持っています。