おはようございます
今日は、歴代誌下17:1-9でした。
今日の17章から、20章までユダの王ヨシャファトの物語です。
ヨシャファトとは、「主が治める」という意味の名前です。
まさに彼は、その名前の通り、主に従った偉大な王でした。
父であるアサ王も偉大な王として記録されていますが、その子であるヨシャファトはそれを受け継ぎ、さらに大きく発展させています。
今日の個所で、非常に特徴的なのは、7節からの話です。
7節「彼はその治世第三年に、高官たちベン・ハイル、オバドヤ、ゼカルヤ、ネタンエル、ミカヤを遣わして、ユダの町々で教育を行わせた。」
ヨシャファト王は自分自身が、主の律法に従って歩んだだけではありませんでした。
リーダーたちを全国に遣わせて、律法を教えたのです。
8節を見るとレビ人も共に遣わされています。
実は、ヨシュア記によれば、レビ人は嗣業の土地が与えられませんでした。
代わりに、11部族のそれぞれの地域にレビ人の住む場所が与えられていたのです。
彼らの使命は、そこで聖書をおしえ、礼拝を守らせることでした。
しかし、このレビ人の教育システムは残念ながらほとんど機能しなかったのです。
このことこそが、イスラエルを聖書から引き離し、世界観を異邦のものへと変化させてしまった要因の一つとなりました。
ヨシャファト王は、ヨシュアの時代に主が与えてくださった計画、レビ人の本来の使命に立ち戻ろうとしているわけです。
特に、9節「彼らは主の律法の書を携え、ユダで教育を行い、ユダのすべての町を巡って、民の教化に当たった。」
町をめぐってと翻訳されている、「巡る」という言葉は、取り囲む、包むという意味もあります。
つまり、律法の教えでユダ全体を取り囲んだのです。
私たちは、この神の言葉によって取り囲まれているということを忘れてはなりません。
自然の人、肉の人である私たちは、この神の言葉の囲いから出てしまいます。
せっかく、イエス様の救いの門から入って、主の牧場の中に安全にいるのですが、
私たちは福音を忘れ、主の恵みを忘れるときに、この囲いから出ているのです。
実に、私たちは様々な主の恵みによって、囲まれています。
天地創造という神の栄光と、主の再臨という神の栄光に囲まれています。
イエス様の十字架の贖いの御業と、私たちの復活の御業に囲まれています。
これは、イエスキリストという存在そのものを表しています。
実に、イエス様の人性は、神性によって取り囲まれなければ、存在することが出来ません。
2000年前、肉となられたイエス様は、私たちの目に見える姿をとっておられました。
しかし、その人性は、目に見えない神性によって、つまり、神ご自身によって、常に囲まれていたのです。
クリスチャンとは、イエスキリストと全く同じ状態となっていることを言います。
私たちが本当の意味で「生きている」ためには、神に囲まれてないとなりません。
だから、私たちは、今日も主の愛に、主の恵みによって囲まれている、つまり、福音を新しく聞くべきです。
どこにいこうと、何をしようと、神の愛が私を囲んでいます。
私が逃げ出さない限り、主は私を囲み、包み、守ってくださると信じて、今日も、その愛を体験することが出来ると期待しましょう。
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東京リビングストーン教会は、早天祈り会を行っている教会です。
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