おはようございます。
今日は、歴代誌下17:10-19でした。
昨日の個所でヨシャファト王が行った、みことばの教育によって、国がどうなったのか、結果です。
10節「主への恐れがユダを取り巻く地域の国々を襲い、ヨシャファトと戦いを交えるものはなかった。」
神の恵みに囲まれているものは、その恵みが恐れとなって周りに波及します。
もちろん、この恐れは、恐怖といういみの恐れではありません。
「タダものではない」とか「侮ると危険である」と言った畏敬の念が強い方の恐れです。
これは、神の「聖」である性質から来るものかと思いがちです。
他の者とは区別された存在という、「聖」は、タダものではない雰囲気を持つからです
ただ、三位一体の神は「聖」である神ですが、「聖」だけの神ではありません。
「聖」だけの神は、アッラーもそうであるし、ユダヤ教の神もそのような存在です。
人間とは違う遥かなる高みにいらっしゃる神という概念は、どこの宗教にもあるということです。
「聖」だけの神は、人間を超えているがゆえに、逆を言えば、人間と関係を持つことが出来ません。
無神論が唯一、真実であるポイントは、この「聖」だけの神はいない、と考えたことです。
「神は死んだ」という言葉の「神」は、「聖」だけの神に他ありませんでした。
しかし、私たちの知っている神は、全く違います。
確かに「聖」である方です。しかし、同時に「俗」である方です。
神でもあるし、人でもあるからです。
イエスキリストが、人であることによって、神は人と関係をこれ以上ないくらいに、深くされました。
しかも、死ぬべき肉をとってこの世に来られたのですから、聖なる神は、本当の意味で「俗」となられたのです。
全ては、三位一体の神が「愛」であったからです。
愛は、2つの者を強く結びつける帯のように働きます。
愛は、まず三位一体の神ご自身を、堅く結びつけています。
そして、同じ愛は、三位一体の神と、私を固く結びつけているのです。
ヨシャファト王の神を求める努力は、この愛によって国を結びつけることに成功しました。
世界のどこにもない愛、この天から与えられた愛は、世界に向かって「タダものではない」ことを表現します。
「タダものではない」愛によってキリストに結び付けられたクリスチャンは、まさに「タダものではない」存在として恐れられるのです。
12節「ヨシャファトはますます勢力を増し…」
「ますます」と訳されている言葉は、「最上限まで」という意味を持っています。
つまり、もうこれ以上は無理ですよというレベルまで、ヨシャファト王は強くなったということです。
私たちにとっての最上限はどこにあるのでしょうか?
私たちは、神の国という最上限を知っているのではないでしょうか?
神が治める、栄光の光によって包まれる国こそが、最上限です。
この国に向かって私たちは歩んでいるわけですが、忘れてはならない祈りが、主の祈りにあります。
「御国を来たらせたまえ。御心の天になるごとく、地にもなさしめたまえ。」
最上限、最高である御国が、私の生きている地上に来るように祈ることこそが、私たちの使命です。
地上であらゆる足りなさを、神の愛によって満たされるように、
ますます、愛が私たちから流れ出て、そこに御国が来るように、切に祈り、タダものではない今日一日を歩むことを期待します。
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東京リビングストーン教会は、早天祈り会を行っている教会です。
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